久谷地区の神社と神々
縄文時代以前は200人程度の住民が血縁集団の村落を作り、自分たちの団結のよりどころとして土地の
守り神を信仰していたようである。
大和朝廷の全国統一が始まる3世紀末ごろから、村落をおさめる首長が朝廷に従うことになる。5世紀には
朝廷の下に出雲氏、吉備氏など大きな地方豪族の下で村落の首長が組織化されたが、朝廷は自分たちの神々
を地方に強制はしなかった。そのため、地方の神々はすべて朝廷の守り神の親戚や家来の神とされた。
(氏神様について)
氏神様のもとは地域の守り神で特定の名前はなかったようだ。村落を守ってくれるものとして「み霊」「神」
「命(みこと)」と呼んで敬っていた。古代の人は、すべての人間が体の中に「たましい」という清い心を持つと考
えた。肉体のない「たましい」だけの存在を神と信じた。「神」は「上」で人の上にある空にいるものを指す言葉
である。また「命」は「み言」で命令を下す力を意味する。』
日本が統一されるに従って各地の神様は固有の名前を持ち始める。「宇佐の神」「佐太の神」など他の神と
の区別のためである。朝廷の祖神は大物主神(おおものぬしのかみ)であったが、地方豪族が祀る大国主命と同格
であるとした。
6世紀になると、朝廷は自家の祖神は大国主命よりはるかに格の高い天照大神であると唱え始めた。
やがて地方豪族も祖先神や地方の神は天照大神の親戚や家来の神という神話が作られる。そのため今日の
神道は皇室を中心に置く。国内すべての神が天照大神に従属するため、他の神々は天照大神に守られること
になる。
神社の起源は、磐座(いわくら)や神の住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に臨時
に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではなかった。元来は沖縄の御嶽(ウタキ)のよう
なものだったと考えられる。
古代から続く神社では現在も本殿を持たない神社があり、磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿のみを
建てているところもある。神社に社殿が設置されるようになる過程には仏教寺院の影響もあるとされる。
神社には常に神がいるとされるようになったのは、社殿が建てられるようになってからと言われている。
神はもともと山の麓にいるものと考えれら、そのため神社を平地に移してもその名残をとどめるため敷地を
木で囲った。
(分社の始まり)
平安時代半ばになると武士が起こり、古代豪族の系譜をひく首長などから自立した武士は、中央有力公家
の庇護下に入り、地域の氏神とは異なる神を自領のものとして崇めるようになった。鎌倉時代に入ると、地方
の武士の勢力が拡大し武士の所有する地域に自分が信仰する神社を設けるようになった。
(神仏習合)
飛鳥時代以降、国内に仏教が広まり多くの寺院が作られる。平安時代には神社側が自分たちが取り残され
るという危惧を抱き始めた。そのため、神社を支配する豪族や武士が僧侶を雇って神前で仏事を営ませ、ここ
に神仏習合が始まる。
(施設)
神社の周りには鎮守の杜と呼ばれる森林があるのが一般的である。御神木といわれる名木には、注連縄
を結ばれているものもある。神社の入口には、境内と俗界の境界を示す鳥居があり、社殿まで参道が通じる。
参道のそばには身を清めるための手水舎(手洗所)、神社を管理する社務所などがある。大きな神社では
神池や神橋がある場合もある。
社殿は一般に本殿(神殿)・拝殿からなる。人々がふだん参拝するときに目にするのは拝殿で、御神体が安置
される本殿は拝殿の奥にある。
(その他)
久谷の神社の向きは南と東側になっている。『天子は南座す』という中国古来の言葉に従ったもので皇室に
ゆかりのあるものは南側を向き、出雲にゆかりのあるものは東を向いていると考えてよい。家の神棚も南向き
か東向きになっている。
久谷地区の神社の祭神一覧 |
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葛掛五社神社 |
大宮八幡 |
正八幡神社 |
小村稲荷神社 |
勝山神社 |
竜神社
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金毘羅神社 |
中野素鵞神社 |
生目(素鵞)神社 |
徳川神社 |
春日神社 |
三島神社 |
諏訪神社 |
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