荏原地区

春日神社


(由来) 

 大昔、従五位下藤原朝臣伊勢臣大津という人が延暦時代(782-807)、一族を引き連れて西野に来た
 時に神社を作ったといわれている。


 
延元(1336-1340)のころ、郷田筑後守が山城国八坂に鎮守していた祇園社を勧進し、牛刀天皇宮と称して
 いたが、明治になって素鵞神社に改称。


 勧進については応永乙未(1415)という説もある。

  

         (拝殿)                      (分祀名未確認)


(神様について)

 素鵞鳴命(すさのおのみこと)が祭祀されている。


「素鵞鳴命」

 「勝山神社」の欄に著述。

 春日神社の本元である春日大社の中心となる祭神は天児屋根命(あまのこやねのみこと)という。

  天照大神が天岩戸に隠れたとき、天児屋根命は岩戸の前で太祝詞(ふとのりと)を唱えたと伝えられる。
 これにより、天児屋根命は神職が神事に用いる祝詞の神とされた。古代人は、よい言葉は幸運を呼ぶ
 力を持っているとする言霊信仰をもっていた。春日神社の祭神は祝詞を通してよい言霊を与えてくれる
 ものとされていた。

 なお、春日大社には天児屋根命、武甕槌神、経津主神、比売神の四柱が祀られている。



諏訪神社


(由来)

  養老5年辛亜茜(721)8月、当時の伊予国国主であった越智玉純(おちのたまずみ)が信州諏訪神社から勧請し
  たものを荏原郷に鎮守の守として地域の安全を願った。

延久5年(1073)源頼義が水田1町歩を免租地として寄進したという伝説がある。

弘安4年(1281)蒙古退治の祈願をした河野対馬守通有が凱旋した時、感謝の意を込めて領田を寄進した。
    大永4年(1524)2月、荏原地区を領有していた平岡遠江守通景が社殿を修復。

天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国征伐の時兵火にあって拝殿・正殿ともに焼失。同18年(1590)に
  再建。慶長5年(1600)9月、河野家の武士だった平岡、得能、錦織、白潟氏などが河野家再興の関ヶ原の
  戦いを好機とし兵や郷民を募って諏訪神社に立てこもったが敵の来襲により再び神社を焼失。

翌年(1601)9月に再建した。これまで地頭や農民の尊崇が厚く、明治9年(1876)2月には村社になった。
    明治40年(1907)11月27日、愛媛県告示第638号、明治39年(1906)勅令第96号により神饌幣帛料供進
   (しんせんへいはくりょうきょうしん神社、郷社、村社を対象に明治から終戦に至るまで勅令に基づき県令をもって
   県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭
神饌幣帛料を共進された神社だが、昭和21年勅令第22号により、
   本令は昭和21年1月16日をもって廃止された)。

  

            (拝殿)                      (素鵞神社)      

  

     (確認してない分祀神社)

(神様について)

健御名方命たけみなかたのかみ)」

   日本神話に登場する神。『古事記』の葦原中国平定の段において、大国主の子として登場する。

    「国譲り」のときに天照大神の「地上の国の統治権を譲りなさい」という要求に対して最後まで頑固に抵抗した。

   健御名方命は千人がかりで動かす大岩を手先で軽々と持ち上げるほどの強力の持ち主だったという。

   古くから狩猟神として信仰され、武威にすぐれた神、つまり軍神としての信仰があり、鎌倉時代には武家社会
    で重視された

諏訪神社について

  神紋    傍折敷角切縮三文字

 主祭神 

   建御名方神(「たけみなかたのかみ」と読む。日本神話に登場する神。『古事記』の葦原中国平定のときに、
   大国主の子として登場する。建て御雷神、経津主神と共に日本三大軍神の一柱であるる。
   御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になった。
   とされている。このとき洩矢神は輪を、建御名方神は藤蔓持って闘ったとされ、これは
   製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある。諏訪大社(長野県諏訪市)を中心に
    
全国の諏訪神社に祭られている狩猟、漁業を守護する。       以上、Wikipediaから

                                                                      

境内の神社  

          素鵞神社(素盞鳴尊。スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する神ある。
      『日本書紀』では素盞嗚尊素戔嗚尊『古事記』では建速須佐之男命たけはやすさのおのみこと、
      たてはやすさのおのみこと
)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命かむすさのおのみこと)、
      須佐能乎命などと表記する。
   旧出雲国では久志美氣濃、櫛御食野(くしみけぬ)命とも言い習わしている。牛頭天王と同一視さ
      れることも。三貴人の末子に当たる。しかしながら、その与えられた役割は太陽を神格化した
      天照大照神と月を神格化した月夜見尊とは少々異なっており、議論の的となっている。
  
                                                                                                           
(以上、Wikipedia


         本殿   神明造桧皮葺 間口2間 奥行き1・5間 面積3坪

         幣殿   瓦葺 間口3間 奥行2間 面積6坪

         拝殿   瓦葺 間口3間 奥行3間 面積12坪


         鳥居   一対 石材

         注連石  一対 (四隅に置かれた石のことで石碑の四隅に置かれています)

      狛犬  一対      灯篭 一対

      手水舎 間口1間 奥行き0.7間 面積0.7

 


主な動き

    ・諏訪神社碑(大正2年初頭)        ・灯篭(安政5年9月吉日)
    ・還暦記念石柱(大正2年5月吉日)      ・幟用柱10柱(明治21年9月が3本、明治31年9月
    ・昭和2年10月、昭和410月、昭和5年4月、昭和15年4月、あと2本は制作年等)不明
    ・境内灯篭(昭和50年4月)       ・拝殿前銅製水受け(昭和53年1月)
    ・曽我神社碑(大正4年6月)        ・このまもり神社碑(昭和55年3月


 
   村落に神が鎮守神として祀られるようになったことについては、一般にある村落とその周辺を
   治める豪族との対立関係の中で、豪族が祀る一族神としての氏神の霊威に対抗する形で、
   村落に鎮守として神社を祀るようになったことが一因として考えられる(以上、Wikipedia

   
しかし、由緒沿革によれば、元正天皇養老5年(西暦7218月、越智玉純が信州の鎮守明神を勧請し、
   荏原郷の鎮守と定めて国家平安を祈ったという。分かっているその後の歴史は次の通り。
   ・延久5年(1073)源頼義により水田一町歩の免租寄進なされた。
   ・弘安4年(1281)、蒙古退散祈願をし、凱旋した領主の河野対馬守通有が神領田を寄進。

     ・
天正
13年(1585)豊臣秀長を総大将とする四国征伐の戦火のあおりを受けて神社焼失。翌年再建。

   今の神社の建設時期は正確には不明。境内にある市指定の樹木には樹齢350年とあるから、江戸時代
   初期に植えられたものであろう。いずれにしても、村の鎮守は日本の神社信仰(神道)に似たものが中国の
   江南地方とその周辺地域にあって、江南を起源としておそらく稲作などとともに複合文化として古い時代に
   日本列島まで伝わってきたと考えられている。


  
 地方の神社として、たとえば、日本の中央部に多い白旗神社などは29代欽明天皇の御代(540571
   に建立されている。恵原の諏訪神社も時の流れを受けてかなり早い時期に建立されたと考えられる。


   ・拝殿の修復  昭和531     幟の新調    平成17年 町内の有志5名の寄進
   これ以降のことは「恵原町の歴史」に掲載。

                                                                                          
          


大宮八幡神社


(由来)
 昔、この地に大日要貴尊神(おほひるめのむちみことのかみ=天照大神)と大日姫神(おおひるめのかみ)を奉納して
   神明宮と称していた。その後崇峻天皇2年(589)の時、小千益躬が筑紫(福岡県)の国から胸肩(宗像)
   大神を勧請して場所を北にずらし、神野大宮と称し、8町歩の神地を賜った。

  貞観元年(859)宇佐宮を合祭して大宮八幡宮となる。部門の尊崇も厚く社殿の造営、宝物や社領の寄進
   も多く、称光天皇の花押や書状、また西南将軍宮満良親王が奉納された御剣もあると記録に散見される
   そうである。

  慶長5年(1600)9月、諏訪神社と時を同じくして兵火に会い、社殿や宝物すべて焼失。楼門が現存する。
   なお、御更衣神事は元正天皇在任時の養老5年(7218月、小千玉純が詔を奉じて安芸(広島県)厳島神社
   の神輿を当社に奉迎し、神衣をいただいたことに起因するといわれている。

   従って今も毎年禁裏御所から御神衣を賜っていた。中世武家支配の時代になって御神衣下賜はなくなる。

  

       (仁王門)                        (拝殿)

              

         (お百度石)           (市指定記念樹木で樹齢は300年以上)

   

(神様について)
  
  「応神天皇」「神宮皇后」「仲哀天皇」「武内大臣(武内宿禰)」「豊玉姫命(とよたまひめのみこと)」「田心姫命
    (たこりひめのみこと)」「湍津姫命(たぎつひめのみこと)」「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」。
  境内には素鵞鳴命を祀る「素鵞神社」がある。

「応神天皇」
    応神天皇(おうじんてんのう)は仲哀天皇の第四子。生母は神功皇后であり、母の胎内にあって新羅へと
    往還したが、帰国直後に生まれた(仲哀天皇9年。庚辰。西暦320年)。父の仲哀天皇の亡くなった年の
    冬に誕生。
   応神天皇の名は「ホムダワケ」(『日本書紀』では誉田別、『古事記』では品陀和気)と表記されている。


「仲哀天皇」
  第14代天皇である仲哀天皇は1月11日に即位したとされています。この仲哀天皇はヤマトタケル」と
   呼ばれた小碓オウス)皇子の子どもである。仲哀天皇の皇后があの有名な神功皇后である。

「武内大臣」
  正式な名前は「武内宿禰」。伝説では、実に360歳という長寿を誇る怪物的な存在である。それにちなんで
   延命長寿の神さまとして知られている。また、不思議な霊能力を発揮する武運長久、厄除けの神さまでもある。
  「古事記」には、景行天皇に始まって成務、仲哀、応神、
仁徳まで五代の天皇に244年間に渡って仕えたと
   記されている。その間にいろいろな功績を残したとされているが、とくに有名なのは、神功皇后
の新羅遠征の
   事業を補佐したことだ。そのほかには、景行天皇のときの蝦夷地視察、応神天皇
誕生後の籠坂、忍熊王子
   の叛乱討伐などといった功績が記紀に記されている。

「豊玉姫命」
  豊玉姫命という神名は、姿かたちの見目麗しい女性を意味する。海神の娘である豊玉姫命は、海神(ワタツミ
)
  の宮にやってきた山幸彦(火遠理命)
と結婚して子供をもうけ、夫に富と地上の王として君臨する資格を授ける。
  聖母神であると同時に、福を招き、出世を約束する女神である。

「田心姫命」
   日本神話
に登場する神で、宗像三女神の一柱である。古事記では多紀理毘売命、日本書紀では田心姫
   (タゴリヒメ)・田霧姫と表記される。タキリビメを単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・
   厳島神社などで、また、アマテラスとスサノオの誓約で生まれた五男三女神ともに各地の八王子神社などで祀られる。

「湍津姫命」
  アマテラスがスサノオの持つ剣を譲り受けて宗像三女神を生み、スサノオの物実から生まれたのでスサノオ
  の子であると宣言された。タギツヒメを単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社など。

「市杵島姫命」
 アマテラスとスサノオが天真名井で行った誓約(アマテラスとスサノオの誓約)の
際に、スサノオの剣から生まれた
  五男三女神
(うち、三女神を宗像三女神という)の一柱である。古事記では2番目に生まれた神で、別名が狭依毘売命                                                                                       (さよりびめのみこと)であり、宗像大社(福岡県宗像市)の中津宮に祀られているとしている。  
 日本書紀本文では3番目に、第二の一書では最初に生まれたとしており、第三の一書では最初に生まれた瀛津嶋姫                                                                                        (  おきつしまびめ)の別名が市杵嶋姫であるとしている。現在宗像大社では、辺津宮の祭神とし
  ている。

「武内大臣(武内宿禰)」
   12代景行天皇から16代仁徳天皇にいたる5代の大王に224年間仕えたといわれる伝説上の人物。彼は最初
   に大臣(大王に次ぐ地位)になった人で、葛城、蘇我氏など有力豪族がが大臣になるとすべて「武内大臣(武内
   宿禰)」の子孫であるという系譜を作成した。

  「古事記」の中では「武内大臣(武内宿禰)」は神に近い霊力を持つ優れた大王の補佐役として登場する。
   霊媒として八幡神になった神宮皇后を助けるお伴の神としての「武内大臣(武内宿禰)」の役割が考えられた。
   その結果、高良玉垂神(こうらたまだれのかみ)の名前を与えて祀る高良大社(久留米市)は、祭神を八幡宮の第1
   の随神としている。

 「武内大臣(武内宿禰)」は延命長寿の神とされるが、立身出世や子育てのご利益もあるといわれている。



小村稲荷神社


(由来)

 白潟弥兵衛という人が京都伏見神社から勧請したのが始まりと言われている。それ以上に詳しいことは
  不明。

    

           (拝殿・神殿)                      (石碑)

(神様について)


  「玉依比売命」「帯中比古天皇」「品陀和気天皇」「息長帯比売命」が祭神となっている。

「玉依比売命」

 正八幡神社の項に記述。

「帯中比古天皇」

 仲哀天皇のこと。大宮八幡神社の項に記述。

「品陀和気天皇」

 応神天皇のこと。大宮八幡神社の項に記述。

「息長帯比売命」

 神宮皇后のこと。『紀』では気長足姫尊おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命おきながたらしひめ
   のみこと
)・大帯比売命おおたらしひめのみこと)と記されている。



竜神社


(由来)

 文武天皇元年(6988月、小千玉輿が重信川の洲を開拓して耕地に変えるとき、水源を掘り当てたので
  そこに竜神さんを祀った。竜神神としてその後一切涸れることがないという。

 貞観13年(9716月に南海道大干ばつ、天保10年(1839)及び安政3年(1856)のときにも水は涸れなかった。

 文明19年(1471)浮穴城主により社殿再建。また同年、河野通矩により相模社再建。

  

       (拝殿・神殿)                 (由来にもある涸れない泉)

(神様について)

「瓊々杵命(ににぎのみこと)」「伊弉冊命(いざなぎのみこと」「宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)」を祭神としている。

「瓊々杵命」
 天照大神は日本の国を治めさせるため、自分の子である天之忍穂命(あめのおしほみみのかみ)を高天原
  (たかまがはら。天照大神が支配する天上の国)から地上に降そうとするが、そのとき天之忍穂命に子が産ま
  れたので、代わりに孫の瓊々杵命(ににぎのみこと
)を三種の神器である八尺(やさか)の勾玉・鏡・草なぎの剣を持た
  せ降臨させることになった。天児屋命(あめのこやねのみこと
)や手力男神(たぢからをのかみ)などの神々が瓊々
  杵命に付き従った。
 瓊々杵命一行が天から降りようとしているとき、地に通じる要所で輝きを放つ神の姿があった。天鈿女神
  (あめのうずめのかみ)が近づいて「誰か」と問うと、国つ神(「天つ神」に対して天孫降臨以前から国土に土着
  していた神)の猿田彦神
(さるだびこのかみ)。後に天鈿女神と結婚)で、先導役として仕えたいという。一行はこれを
  認め、猿田彦神を先頭にして天空に幾重にもたなびく雲をかきわけ、天の浮橋から筑紫・日向の高千穂の霊峰
  に降り立った。

「伊弉冊命」
 イザナギといえば『記・紀』神話では愛妻イザナミとともに大八島国(『紀』では大八州国)をはじめ島々を生み
  出しさらに多くの神々をつくりだしたものの、死んでしまって黄泉の国に隠れたイザナミを追って黄泉の国へ行っ
  たものの、変わり果てたイザナミの容姿に驚き逃げ帰りけがれた身を筑紫の瀬戸で清め数々の神を生み出し、
  最後にいわゆる三貴神、アマテル・ツキヨミ・スサノオを誕生させ淡海(近江)の多賀(『紀』では淡路)に鎮座する
  あの国生みの神である。


「宇迦之魂命」
 宇迦之御魂神、別称の稲荷神のほうが馴染みがある。今日では一般に商工業方面に霊威を発揮する神とし
  て信仰されている。しかし、名前に「稲」とつくように、もともとは五穀と養蚕を司る穀物神、農耕神で、稲の生産、
  豊穣を守護する神として崇められた。その稲荷神を祀る稲荷社の祭神とされるのが宇迦之御魂神である。
 食物を司る御饌都(みけつ
)神ともいわれる本来の性格から、宇迦之御魂神はしばしば伊勢神宮の外宮に鎮座
  する豊穣の女神
豊受大神と同一神格と見られたりする。日本の神さまというのは、神話などでは違った名前で
  出てきても、その基本的な性格がほとんど類似することから、同一神であるということが多いらしい。ただし、伏見
  稲荷大社の主祭神の宇迦之御魂神と伊勢神宮の豊受大神とははっきりと別な神である。


                                                                                                          

中野素鵞神社


(由来)

 延元(1336-1340)の頃、郷田筑後守が山城国(京都府)八坂に鎮座していた祇園社を勧請して、牛頭天満宮
  と称していたが、明治になって素鵞神社と呼ぶようになった。

 湯築城の河野氏が秀吉の軍門に下って以降浪人となった武士が帰農して中野の開拓にあたった。この人たち
  は東温市の野田地区の人が多数であったため、彼らの氏神は野田の三島神社であった。そのため紛争もあり、
  明治の初め中野一村に限って祭りの催行を県令あてに出し、許可されている。

   

         (拝殿・神殿)                   (素晴らしい彫刻)

(神様について)

 祀られているのは「素鵞鳴命」。

「素鵞鳴命」については春日神社の項に記述。



徳川神社


(由来)

崇峻天皇(587-592)の御代、小千益躬(おちのますみ)=伊予の豪族)が大三島から大山津見神(大山積神)を
   勧請して徳川宮と称するようになる。和銅2年(706)三島浦戸から諸山積大明神を勧請して、拝志徳川大明神
   となる。

久谷の地を支配していた土岐一族の産土神として熱く尊崇され神殿の再建を受けている。また、元寇の役で
   功をおさめた河野通有も神殿を寄付している

 この地は大昔徳川と呼ばれていたため、徳川神社として今にいたる。

  

        (拝殿)                            (神殿)  
  

  (左から菅原道真命、素鵞神社、              (拝殿内部)

若宮神社、天満神社)

   

       (本来の鳥居)                      (90段ある石坂)


(神様について)

「面足命(おもだるのみこと)」「惶根命(かしこねのみこと)」「大山積命(おおやまづみのみこと)」「雷神」「高麗神」が
   祭祀されている。

「面足命」 
  
 神世七代の第6代の神で、オモダルが男神、アヤカシコネが女神である。オモダルは「大地の表面(オモ=
   面)が完成した(タル=足る)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの(『古事記
』に
   よる)である。

中世は、神仏習合により、神世七代の六代目であることから、仏教における天界の最高位である第六天魔王の垂迹で
   あるとされ、特に修験道で信奉された。


「惶根命」
  神代七代の神のうちの一柱。いよいよ大地が成り立って、それを「あやにかしこし」と美称したところから名付け
   られた女神。面足尊と対になる神で、大地・身体、すべてを完全に保全する霊力を備えられる神である。

「大山積命」
  大山祇神は日本全国の山を管理する総責任者です。その娘に、富士山の神の木花咲耶姫
(このはなさくやひめ)
   神とその対の存在であり同じ神の両面ともいわれる木花知流比売(このはなちるひめ)神、浅間山の神の岩長姫
   (いわながひめ)神、稲荷神や大年神のである母神大市比売(かみおおいちひめ)神、などがおられます。

大山津見神、大山積神などとも書きます。神産みをした時の子で、伊邪那岐神・伊邪那美神が奥様の野の神・
   鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)もその時いっしょに生まれました。(百済から渡って来られたという説もある)。
   大山祇神社は全国に1万余りあるといわれる山祇神社にお祀りされていますが、その中心は瀬戸内海大三島町に
   ご鎮座する大山祇神社です。山門が約3億円かけて平成22年度に再建されています。


「雷神」
   雷神(らいじん)は、日本の民間信仰や神道における雷の神である。「雷様(かみなりさま)」「雷電様(らいでんさま)」
   「鳴神(なるかみ)」「雷公(らいこう)」とも呼ばれる。

   菅原道真は死して天神(雷の神)になったと伝えられる。民間伝承では惧れと親しみをこめて雷神を「雷さま」と
   呼ぶことが多い。雷さまは落ちては人の
ヘソをとると言い伝えられている。日本の子どもは夏に腹を出している
   と「かみなりさまがへそを取りにくるよ」と周りの大人から脅かされる。

「高麗神」
 主祭神はかつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗国からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は他に
   「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)。

若光が渡来した年代については不確かだが『日本書紀』天智天皇称制5年(666)年10月高句麗から派遣さ
   れた使節の中に「二位玄武若光」の名がある。『続日本紀』文武天皇大宝3年(703)年に御祭神が「従五位下
   高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考え
   ると、『日本書紀』にある「玄武若光」と高麗王若光は同一人物と思われる。

  若光は元正天皇霊亀二年(716)武蔵国内に新設された高麗郡の首長として当地に赴任する。当時の高麗郡
   は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)
   下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに開拓に当たった。若光が当地で没した後、
   高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀られるようになった。

                                                                                                                                   

三島神社


(由来)

 往古、大山積神を祀って鎮護としたが、和銅5年(712823日、伊予の大領であった越智玉輿(おちたまこし)
   が大三島神社から高麗神、雷神、摂社十六皇子(本社の境内にあるものを境内摂社というが、16皇子は不明)を勧請合祀して、
   3町歩を寄進して神領とした。

  河野通有が蒙古退散祈願をして功績があったので、神殿の補修と神領を寄付。

  天文3年(1534)荏原城主平岡大和守通房が具足と銘刀を寄進。また松山城主であった松平(久松)家も尊崇
   の念が厚かったようである。

  

          (拝殿)                      (神社由来の石碑)

     

(拝殿内にある絵馬)              (お百度石)

(神様について)

「高麗神」

 徳川神社の欄に記述。

「雷神」

 徳川神社の欄に記述。

「摂社十六皇子」

 神仏習合の思想が持ち込まれるのは平安時代末で、摂社・末社も本社とは一体であるという考え方になった。
 大山積神の本地仏は大通智勝仏でその子に十六人いたが、それぞれを王子神として設定されたもの。神仏習合でとらえると、
 これら十六王子神は大山積神の分身、すなわち「大山積神」というわけである。

 念のためその十六皇子を調べて、列挙しておく。

 1 保食神   2 磐裂神   3 倉稲魂神   4 啼沢女神   5 磐長姫命   6 木花開耶姫命   7 枉津日神
 8 狭田彦神  9 闇靇神  10 瀬織津姫神  11 速佐須良姫命通   12 大晝目命   13 大直日神
 14 火須勢理神   15 火々出見命   16 市杵島姫命



 鳥居のないちっぽけな神社が一六タルトの北側にあります。拝殿と神殿は一体です。
 右の大きな石には「素鵞社」となっています。比較的新しく再建されたようです。歴史は分かりません。

参考文献

久谷村史  久谷村史編集委員会  昭和42年

ふるさと荏原  松山市立荏原小学校  昭和62年

ふるさと坂本  坂本公民館   平成4年

知っておきたい日本の神様  青木誠一郎  角川学芸出版  平成20年

日本の神様がよくわかる本  戸部民雄  PHP文庫  2008年

ネット辞典Wikipedia

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