坂本地区
(この神社には鳥居が見当たらない)
(由来)
文武天皇が持統天皇から譲位をうけた年(701)の8月、大和(奈良県)の葛城山から役小角(えんのおずの)
をお迎えし、そのころ大木が生い茂って昼でも薄暗い奥久谷の場所を切り開いた。その地を「表田(おもてだ)」と
名付け、そこを基にその後の開墾や伐採を行う人が住めるように役小角を中心に掟を作りました。
役小角その時、葛城山から「一言主大神」の御神霊をお迎えし、表田の鎮守としました。例祭は12月12日
になっています。
河野氏の時代(1181-1587)、一族のものが歴代この神社を崇め、旱魃のときはここで雨乞いを行い、
その他いろいろな願いごとやお祈りも行うなど由緒深い神社です。
天保8年(1837)に起きた火災のため、神社や宝物、記録などが焼失。現在のものは天保11年8月に再建
された以降のもの。
神社の周辺にはウラジロガシ、イチイガシ、カゴノキ、ヤブツバキなどの巨木が残り、松山市指定天然
記念物になっている。
(拝殿奥) 左から「厳島社」「宇波社」「新田社」
(神様について)
この神社に祭られている神様は、「一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)」のほか「罔象女神(みずはめのかみ)」
「国狭槌神(くにざずちのかみ)」「埴安神(はにやすのかみ)」「金山彦神(かねやまひこのかみ)」など5つの神様が祭られ
ているため、五社といわれている。
「一言主大神」
Wikipediaによると、この神は460年(雄略天皇4年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、
紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見つけた。
雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言いはなつ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。
天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神
はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。
葛城山麓の奈良県御所市にある葛木一言主神社が全国の一言主神社の総本社となっている。
「罔象女神」
古事記の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産
巣日神(ワクムスビカミ)とともに生まれたとしている。日本書紀の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神
(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビノミコト)が生まれた
としている。
神名の「ミヅハ」は「水走」と解して灌漑のための引き水のことを指したものとも、「水つ早」と解して水の出始め
(泉、井戸など)のことともされる。
灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる。
「国狭槌神」
山の神の大山祇命、野の神の鹿屋野比売命(かやぬひめのみこと)二神から生まれた神で、「狭」は坂のこと、
「槌(土)」は草の意がある。草の茂る丘を守る神と考えられ、野・山の神の両親の命を受け、低い山々の守護
を分担した神である。
「埴安神」
イザナギとイザナミの間に産れた諸神の一柱である。日本書紀では埴安神と表記される。古事記では、
火神を産んで死ぬ間際のイザナミの大便から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の二神が化生したとする。
地鎮祭で、土の神として他の神とともに祀られることがある。
「金山彦神」
神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷のため病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)
から化生した神である。古事記では金山毘古神・金山毘売神の二神、日本書紀の第三の一書では金山彦神のみ
が化生している。神名の通り「金山」(かなやま、鉱山)を司る神で、嘔吐物から産まれたとしたのは、嘔吐物の外観から
の連想によるものと考えられる。鉱山を司り、また荒金を採る神とされ、鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護
する神とされている。
(由来)
延久2年(1070)8月15日、伊予国司の源頼義が山城の国(現在の京都府)の石清水正八幡神社から神霊を
御勧請され、窪野の北谷に祭られたという言い伝えがある。
その後何度も流失したりしたため佐伯氏が自分の土地を寄進して現在の位置に本殿を建立した。
弘安4年(1280)、蒙古来襲の際、伊予国司だった河野通有、河野通純が国を守り蒙古を打ち破ることができ
るようにと祈願をした時に「このお願いを聞き届けくださりましたら、神殿をもっと立派に立て直し、田畑を奉納い
たします」と誓って出陣した。彼らは運よく蒙古軍を打ち破り無事に凱旋したので、神前での誓いを守って神殿を
建て替え、田畑を寄進しました。
天文12年(1543)8月河野通宣の妻が願掛けをする際大般若経を写して奉納しましたが、その写経は今も正八幡
神社に保存されているそうです。
毎年8月21日には「風鎮祭」が行われ、神社で祝詞があげられ、太鼓が打ち鳴らされます。僧侶たちの大般若経
の読経とともに祭事が始まり今になお引き継がれています。
(平成19年9月10日に新装なった木造鳥居) (拝殿奥)
(市指定クスノキ 樹齢300年以上) (秋山好古大将の揮毫) 「不善之百殃」
「作善降之百祥」
(神様について)
祭神は「玉依比売命(たまよりひめのみこと)」「帯中比古天皇(たらしなかつひこのみこと)」「品陀和気天皇(ほんだわけのみこと)」
「息長帯比命(おきながたらしひめのみこと)」が祭られ、窪野の氏神様になっている。
「玉依比売命」
綿津見大神(海神)の子で、トヨタマビメの妹。天孫降臨の段およびウガヤフキアエズの段に登場する。
トヨタマビメが産んだホオリの子であるウガヤフキアエズ(すなわちタマヨリビメの甥)を養育した、後にその妻と
なり、イツセ、イナヒ、ミケヌ、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)を産んだ。
全国にタマヨリビメという名の神を祀る神社があり、その多くはその地域の神の妻(神霊の依り代)となった
巫女を神格化したものと考えられる
「帯中比古天皇」
仲哀天皇のこと。生年不詳 - 仲哀天皇9年2月6日(200年3月8日))は、『古事記』『日本書紀』に記される
第14代の天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日(192年2月11日) - 同9年2月6日(200年3月8日))。「タラシヒコ」
という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実
な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12,13,
14代の称号は後世の造作ということになり、仲哀天皇の実在性には疑問が出されている。
「品陀和気天皇」
西暦372年に、8歳の年齢のときに即位。そして394年に、30歳で逝去したので、その治世は23年間に及んだ
ことになる。日本書紀の記事も、積算すると、ちょうど23年分あることになる。
古事記では、逝去時の年齢は「130歳」だったとされていますが、真の年齢に「一百」の字を加えただけのこと。
品陀和気は品陀真若王(ホムダマワカノミコ)の子で、品夜和気(ホムヤワケ)(応神天皇1)の弟にあたる。
品陀和気が誕生したのは365年になるが、それは帯中日子が逝去してから3年後のことであり、その本人が
「胎中天皇」ではあり得ないことを示している。
「息長帯比命」
神宮皇后のこと。紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・
大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。 父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は
天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母。
(由来)
光明天皇の御代、仁和丙午(884)正月に菅原道真が讃岐守に任ぜられ、4月に讃岐(香川県)にある滝の宮
にある官府(役所)に赴任する際、隣国の生活や風俗習慣を見てくるように指示されていた。そのため仁和4年
(888)2月に伊予国宇摩郡から順に見て回り、上浮穴郡久万山や菅生山(すごうやま)へ行く途中、北久谷、片山
に宿泊。
ほぼ60年後の天慶年(942)9月25日に、越智安家(おちやすけ)の人々が大宰府に赴き、菅原道真公の御神霊
をお迎えして、現在地に祀ったといわれる。
愛媛には他に24の有名な天満宮がります。このお宮を立てたのは河野一族であり、また河野が支配する領土
の砦もかねていました。いつしか葛城の領主がこの天満宮を守るようになり、現在は久谷中組の人が祭りをして
います。
(神様について)
「御光神社」 「猿田彦神社」 「金山彦神社」 「金毘羅神社」 「大物主尊」 「素鵞鳴命」が祀られている。
(拝殿) (拝殿奥)
(神殿付近) (お百度石)
「御光神社」
どのような神なのか不明。
「猿田彦神社」
日本神話によれば、猿田彦神はニニギの天降りの先導を終えた後、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まった。
倭姫命世記によれば、その子孫の太田命は天照大神を祀る地として倭姫命に五十鈴川川上の地を献上した。
太田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、神宮に玉串大内人として代々奉職したが、その宇治土公が
邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦を祀っていた。明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、
屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社である。
猿田彦神がニニギの先導をしたということから、交通安全・方位除けの神社として信仰され、全国2,000以上
に及ぶ。
「金毘羅神社」
金毘羅神社は、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮を総本社とし、その祭神である大物主神を祀る神社
である。日本全国に存在する。金刀比羅宮は、元はその鎮座する象頭山の神を祀るものであった。古くから
象頭山は瀬戸内海の航行の目印とされてきたことから、象頭山の神は航海安全の神として信仰されるように
なった。中世になると、航海安全だけでなく、祈雨の神として農民からも信仰された。
「大物主尊」
大物主尊の神名は天照大神。
「素鵞鳴命」
出雲大社の祭神は大国主命であるが、寛文6年(1666)毛利綱広が寄進した銅製の鳥居に刻まれた銘文
には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」とあり、この当時には祭神が「素鵞鳴命(尊)」とされていたとみられる。
(由来)
この神社は慶長年間(1596−1616)に香川県の金刀比羅神宮から勧請されたようである。
(90段ある急な石段) (拝殿)
(鳥居にかかっている神社名) (何の神様が祭祀されているのか)
(神様について)
「金毘羅様」
金毘羅寓の社殿が建つ象図山は古くから瀬戸内海を航海する船の目印だった。海に生きる人々はこの
山に神霊の存在を感じ、海上の安全を願って熱く信仰した。それがのちに、金毘羅信仰となって全国に広
がる。
金毘羅大権現は皇室に崇敬されることにより、群を抜いて霊威を獲得する。その有力な神霊が全国各地
の日和山(目印になった山をこう呼ぶ)に勧請され金毘羅神社とか琴平神社と呼ばれている。
(由来)
言い伝えによると、平安時代の終わりに平家にいた侍大将の平景清(たいらのかげきよ)は悪七兵衛
(あくしちびょうえ)と呼ばれる強い侍でした。しかし、屋島の合戦で敗れ日向(宮崎県)に逃れる。源氏の繁栄を
見るのが嫌でついに自分の目をくりぬき、岩に打ち付けて盲目となりました。その後も岩についた目はギラ
ギラと輝き、人々は恐れおののきました。ところが不思議なことに、目を患った人が拝むと目が治りました。
それ以来その場所は生目神社として祀られました。そのことを聞いた窪野村の庄屋さんは日向に赴き、
御神体を勧請して関谷の地に祀ったのが生目神社の始まりだそうです。
毎年4月15日がお祭り日。戦後(1945)しばらくまでは道路の両側に露天がたち並び、上浮穴郡や松山
市内からも多くの参拝客があった。
(拝殿) (神殿)
(目に関係のある祈願など) (祈願成就を願って)
(神様について)
「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「奇稲田姫(くしなだひめ)」を勧請して素鵞神社として祭祀し、永禄12年(1569)
から牛頭天皇宮と呼ばれ、明治になって再度素鵞神社に戻り、明治42年関谷の地から現在の場所へ移転。
「素戔嗚尊」
素戔嗚尊は高天原で起こした騒動の罰として、髪の毛も髭も切り取られ、手足の爪まで抜き取られて
地上界へ落とされました。あまりの惨めな姿に食べ物を与えようとする者すらなかったのですが、素戔嗚尊
は歩いていくうちに「大気津比売神(オオゲツヒメノカミ)」と出会い、たいそうご馳走になります。ところがそのご馳走
が大気津比売神の口から吐かれた物であることを知ると、素戔嗚尊は「汚い」と大気津比売神を斬り殺して
しまうのです。倒れた大気津比売神を見て、本来なら食べ物をくれたお礼をしなくてはならないのに、短気を
起こして大気津比売神を斬り殺してしまったことを素戔嗚尊はひどく後悔します。
涙を流して後悔している素戔嗚尊の前で不思議なことが起こります。なんと大気津比売神の目から青い草
が生え、見る見るうちに穂が出て黄色くなり稲となり、耳からは粟が、鼻からはあずきが、お腹からは麦、足
からは大豆、そして頭からは蚕が生まれ出したのです。そして大気津比売神が何事もなかったかのように
生き返り、素戔嗚尊に新しい稲穂の米を食べるように勧めると、素戔嗚尊に髪が生え、爪が元に戻ってくる
のでした。そして稲穂を食べたことで今まで粗暴だった素戔嗚尊に優しい心と知恵までが備わります。
「奇稲田姫」
高天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオは、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われているアシナ
ヅチ・テナヅチの夫婦に出会い、クシナダヒメを妻として貰い受けることでヤマタノオロチの退治を請け負った。
ヤマタノオロチを退治した後、スサノオはクシナダヒメと共に住む場所を探し、須賀の地に宮殿を建てた。
また、スサノオが追放されたのは日の国の外である(いわゆる朝鮮半島)との説がある。