久谷地区(荏原中心)の歴史

久谷地区にいつごろから人が住み始めたか、まだしかとした学説がないがいたるところに古墳があり、

2015年東方大橋の開設に伴う県の発掘調査で紀元前3世紀前から鎌倉時代に至る土器などが発掘された。

紀元前3世紀といえば、縄文・弥生時代。地形から見てまだ稲の栽培よりも川魚、山の鳴物や動物を

とらえていた縄文時代には確実に人がいたことは間違いない。


1   古代の地名と由来

郡の成立

大宝律令(701)により伊予に郡を設置=宇摩・新居・周敷・桑村・越智・野間・風早・和気・温泉・久米・浮穴・伊予・喜多・宇和の。
14郡には郷が設けられ、浮穴郡は「井門」「拝志」「荏原」「出部(いずべ)」の四郷があった

大宝律令(西暦700年代)のころ、国府は今治の国府
におかれ久米群には支庁に当たる久米官衙が、そして
久谷地区には出張所の形で置かれていたのが、「岡本の宮」。
岡本とは、岡のふもとという意味。
今の東方町の南寄りの地区。
そこを中心に名前が付けられていく


当時使われていた字義は次の通り。このことを頭に入れて、
地名を見ると意味がよくわかる

原=平らで集落に近い原野。

野=山に近い傾斜地で集落から少し離れた場所。畠の意味もある。

=平地より少し小高い所。

荏原とは荏胡麻の油」。現在の菜種油のことで、良いものを「エノモノ」と言う。これと同様「良い原」と言うことを、昔の人は「エーバラ」と言った。
荏原町村は享保17年(1732)恵原町村に改名を藩に申し出て許可された。

中野
は、川の流れが緩やかになった辺りには、川原や中州もできる。長い間には、そこに集落ができ、地名としてとどめられていくことが多い。
それが 養下、大上、薬師、天王、竜王、梅の本、大西など12ケ所で残っている。

東方
の場合は、岡本の宮に対して、東の方角に開けたところを表した。矢谷、長生、嘉之助、古市、政友、一丁地62ケ所。


上野
は、山に近い傾斜地で岡本からは高いところにある。今市、蛭子の木、高尾田、上川原など10ケ所。

西野
とは、岡本の宮に対して、西の方角に開けたところを表します。光明寺、迄、道免、岸の上、一丁地、原中など12ケ所


津吉
の場合、「津」は港を意味する。昔は重信川を船が上り下りして、物資や人の流通の大切な道筋だった。津吉はその港を中心にして
開けた土地だということがわかる。津吉の山は北から見ると東西に寝た横山のように見える、昔の人はこれを長山と呼んだ。
(津吉に永山の姓が多いのはそのためかもしれない)長山には沢山楮(チョとはこうぞの意味)が植えられて楮山の意味で徳山と言われ楮の産地として
徳川の村と呼ばれた。津吉の徳川でも良質の楮が出来るので紙が強い(ツヨシ)ので選んだとも言われる、
又一説には戦国武将の中で徳川が一番強いから(ツヨシ)と褒めたたえ又いくぶん得意となって津吉の名を用いたとも言われる。
ただ神社にだけは、徳川の名はそのまま残し今も徳川神社として崇敬されている。
山田、済院木、岸の上、本谷、山ノ神、竹の下など25ケ所


小村
は、定かではないが字義の通り小さい村だったろう。

久谷の場合、谷は山間の土地。久は長いことを表す。したがって、谷が長い地域という意味
坂本とは、三坂峠の下という意味。
                                                                                                                                  

2    集落の成り立ち

1 縄文式時代(約12千年前から2500年前)

最近、松山市教育委員会によって発掘調査された西野の丘陵地から発見された「松ヶ谷古墳」は弥生時代のものと認定されている。
縄文時代からすでにこのあたりに人が住んでいた可能性はある

しかし、恵原のような平地にいたかどうか

は証明できていない。

時の人は山の幸よりも塩分を求めて

海辺に住むことのほうが多かった。

(手前の丘の上に松ヶ谷遺跡がある)

生活様式等を調べてみる。
左図は縄文時代の模型住居。

食べ物として、鯉・鮒・兎・鮎・ごり・ヤツメウナギ・鮠・川エビ・川カニ・うぐい・ボラ・鮭・
鱒・ヤマメ・いわな・沢蟹などの魚類や甲殻類、シジミ・タニシなどの貝類。
「肉類」では、猪・鹿・狸・熊・雉・うずら・雀・つぐみなどの獣や野鳥がある。

                                                      
秋のころの服装。

 

縄文土器の製作想像図。


弥生時代(紀元前3世紀から10世紀
紀元前300年ころ、大陸から先進的な水稲耕作や金属器の使用が伝わる。この時代に作られた土器がいわゆる「弥生式土器」で
上野、西野、東方の丘陵地で見つかっている。いつの間にか跡形もなくなったが、戦後しばらく間土用部池の南(現在みかん畑に
なっている)に古墳らしき石積み跡があった。それを考えると、恵原にも当然住人がいたと思われる。

このあたりに戦後まで石室が残っていた。

この時代の特徴として弥生時代の集落は、水田をつくるのに適した湿潤な低地をのぞむ微高地や台地部に立地するのが一般的。
10
軒内外の竪穴住居に倉庫(前期は地面に穴を掘って貯蔵、中期以降は高床倉庫)、少し離れた場所に墓地というのが一般的
な集落のすがたである

  
また水田耕作は弥生時代の自然環境を巧みに生かして営まれた。各地の遺跡から出土する人骨は弥生時代に朝鮮半島や中国大陸
から日本列島に渡来してきた人々が存在したことを示す。こうした渡来人と縄文以来の在来の人々との混血が、現在の日本人の形質を
形づくっていったと考えられる。


水田稲作の渡来に伴い、金属器や織物など、新しい技術や文化が中国大陸や朝鮮半島からもたらされ、衣食住の生活も狩猟採集の
縄文時代から変化していく。稲作の農耕サイクルに合わせて確立されていった新しい生活パターンは、その後の日本の農村生活の
原形になっていったと考えられる


農耕の開始と発展により現れてきた身分階層の分化や、地域格差は新しい世界観や支配秩序をもたらす。やがてそれはより強大な
政治的権力を生み出し、次の古墳時代には巨大な前方後円墳が各地で築造され、古代王権・古代国家の形成へと向かっていく。

弥生時代の代表的な建築は地面を掘り窪めてつくる竪穴建物、地面に柱を建てて地上に建物をつくる掘立柱建物である。
掘立柱建物は床をつくる高床建物と床はつくらず土間とする平地式建物に分かれる。遺跡から出土する掘立柱建物のうち、柱穴が大きく
深いものを高床建物、比較的柱穴が小さく浅いものを平地式建物に分類されている。 このうち、竪穴建物は主に住居に、高床建物は主
に倉庫に使われた。平地式建物の数は多くないが、やはり倉庫などに利用されたと考えられる

これほど立派ではないが似たような

もっと小規模の住居が恵原にもあったことだろう。



弥生時代には稲の栽培が本格的にはじまり、米をはじめとする穀物を主要な食料の一つとする食生活もまた開始されたことが
推測される。各地の遺跡から出土する炭化穀物などにより
弥生時代には米の他に、小麦、アワ、ヒエ、小豆などの雑穀が
栽培されていたことが明らになっている。

いずれにしても、弥生時代には主として米や雑穀を炊いて雑炊のようにして食べていたと想像できる。
松山市松末5丁目の遺跡から判断して、掘建柱の平地住居の場合、梁間23間、桁行3間程度で3~5軒で1単位の地区を作っていた。
新張遺跡に残るものとして、住居の柱を立てた穴の後。稲穂をはぐのに使った思われる石包丁が見つかっている。



やがて、農耕集団が形成され、仲間の上に立つリーダーも選ばれ、
旱魃には雨乞い、虫害には送り、病気には祈祷もしただろう。
その時には祭壇も使われただろう
その名残と思われる巨石群が今も近くに残っている。
道路拡幅のため少し移動があった。なお原型の想像もつかないが、新張遺跡のあった場所から200mもない場所にある。
なお、この時代久谷以外に開けた場所は平井から久米、上一万付近と考えられる。


                                                                                                                                  
古墳時代(3世紀半ばから7世紀末まで)
弥生式の古墳と異なり規模が大きい。3世紀以降は各地の指導者が成長して豪族となる。そのような身分の高いものが亡くなると、
南向きの日当たりのよい場所、山や丘のふもと、平地では土を盛り上げた墓が造られた。
今に残る八塚古墳群(市指定史跡)はこの時代のものと考証されている。石室は未調査のため明確ではないが横穴式石室と
推察され、時代は古墳時代終末と考えられている。八塚は、一般の古墳群に対して性格的に異なることが考えられ、平野部の
群集墳としても特殊なものであると思われる。ほとんどが円墳または方墳である。

八塚古墳群は久谷地区を代表する有名な古墳群だが、

村史にも出てない地元の方も知らない古墳がることを記しておく。私が勝手に「矢谷古墳群」と名付 けた。
弥生時代の巨石群から南へ200mの位置にあり、ほぼ崩れかけている。
下の画像がそれである。

この場所以外には、津吉古墳群もあるがここもほぼ崩れて面影をあまり残してない。

                                                                                                                                            
古代について(原始社会が終わり、歴史が始まってから中世になるまでの時代

紀元前1世紀から2世紀には日本に多数の部落国家が存在していた。「魏志倭人伝」によると邪馬台国をはじめ28カ国が記録されている。
4世紀後半ころ、伊予も大和朝廷に統一されて5つの国造がおかれた。彼らは地方の豪族で、その下部組織として県主(あがたぬし)を設置。
成務天皇(130-190在位)の代に伊予(余)国が設置され、国造は現在伊予市の神崎あたりに住んでいたと考えられている。
応神天皇(270-310在位)の代に久米(味)国造が任命され、久谷地区はその統治区域になった。後に、久米(味)国造の子孫が苗字に「浮穴」をなのる。


浮穴郡の成立
大化の改新(656)の翌年、政治の大綱として全国に行政区画(国・郡・里)が設けられた。
そして、それぞれに国司・郡司・里長が任命され、687年に田中法磨が初めて伊予の国司として赴任。当時、伊予には宇摩、新居、周敷、桑村、
越智、野間、風早、和気、温泉、久米、浮穴、伊予、喜多、宇和の14郡があった。

浮穴については、続日本後紀承和元年の条に「伊予国人浮穴千継賜姓春江宿禰千継之先大久米命也」とあるので浮穴氏は久米と同族である
ことは間違いなく、郡司として統治したようである。

郡の下部組織である「里」は50戸をもって一里とし、農民から里長が選ばれた。「里」は奈良時代になって「郷」と改称される。浮穴郡には「井門」
「拝志」「荏原」「出部(いずべ)」の四郷。この荏原郷は今の久谷地区全域にわたる。出部とは砥部、広田、中山、双海地域を指す。


天平9年(737)に出された「律書残篇」によれば、伊予国は1368191里(村)とあるから
1郷は50戸なので単純に計算すると50683.400
すなわち当時の伊予の人口は約10万となる。

                                                                                                                                                             
3  「荘園」(奈良時代)から「織豊時代」(桃山時代)」

 初期の荘園はふつう墾田地系の荘園と呼ばれる。法隆寺が所有する天平19年(747)には全国に46か所の荘園があり、そのうちの1つに
浮穴郡が書かれている。場所と規模は不明だが、大宮八幡神社跡と上野の丘陵地から出土した瓦窯跡の古い瓦の模様が法隆寺出土のもの
と同じであることから、法隆寺の荘園たる浮穴郡は恵原を含む荏原郷でほぼ間違いない。

   地頭居館(新張城)
鎌倉時代になった1230年代、美濃国(岐阜県)の有力御家人である土岐一族の土岐光定穴郡の地頭として入部。
居館を恵原町新張に造営。守る場所として東方町に尉の城を造っている。
戦前の写真と計測図をである。

    四方が濠で囲まれていたことがわかる。築城当時、北側は御坂側がすぐ下にあり河岸段丘として防御を担っていたものと思われる。
    ここに居館が築かれたということは、当時このあたりに人々がかなり大勢いたことを想像させる。
    時代が下り、南北朝時代になって荒廃した「浄瑠璃寺」を土岐頼清の子である土岐頼雄が再興している。
   なお土岐氏代々の菩提寺は興源寺(東方町矢谷で今は跡形もない)で、徳川神社(津吉町崇拝していた。興源寺の跡には五輪塔が今も存在する。
          


 一遍上人


 平安時代も半ばを過ぎると既存宗派である天台宗や真言宗の世俗化に物足りなさを感じた時、鎌倉時代の初めに優れた先覚者が出てきた。

 豊年の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の法華宗
などに加え、一遍の時宗をあげることができる。

 久谷地区に関係のある一遍上人は、伊予の支配者である湯築の河野道広の次男として道後の宝厳寺に生まれた。

10歳の時に母を亡くし、剃髪して名を随縁と改めた。やがて比叡山に登り慈眼僧正に師事して、天台宗の奥義を極めた。

26歳の時、九州の大宰府に赴き、聖達について浄土宗の協議を悟り、その宗の門に入った。

信濃の善光寺にもおもむいたが、文永八年(1271)の秋に伊予に戻り、久谷村の奥に庵を結んで浄土宗の信仰に徹した。




一遍は窪寺に三年間修業をし、建治元年(127537歳の時に
紀伊の熊野権現にこもって修行した結果、新しい教理を悟ることとなる。

それが時宗である。教義として念仏に生きることが時宗の時宗たるゆえんである。諸国へ伝道の旅に出るが、踊念仏を行いながら

ほぼ日本を回る。その様子は「一遍上人絵図」に詳しい。。




正応元年(128951歳のとき兵庫県観音堂で息を引き取った。彼の説く時宗は民衆的で平明。常に臨終の心をもって一心に

唱えれば、無念無想の境地となり
そのまま浄土に往生することができるとした。



荏原城

この城の明確な築城年代は不明だが、「忽那一族軍忠次第」によると建武2(1335)年に忽那と

北朝方の大森氏が会原(恵原)城で戦った事が記されている事から、築城年代はそれ以前に遡る事ができる


その後、この城は、後に河野18将の一家(執事)となる平岡氏の居城とな

戦国末期、平岡房実が城主の頃になると、主家河野家の勢力が、和田氏(東温市)・大野氏(久万高原町町)の離反や、家臣の内紛や

相次ぐ離反で衰凋し、土佐の長宗我部氏・豊後大友
氏の勢力が、隙あらば伊予に侵攻しようと企てていた。

天正7年(1579)、土佐の長宗我部元親が侵攻してくると、平岡氏はこれを浄瑠璃寺から矢谷の

あたりで迎撃、撃退している。

天正13(1585)、豊臣秀吉が四国征伐に乗り出すと、平岡通倚が主家河野氏の本拠である湯築城を守備していたが、河野氏が降伏

したため、平岡氏もこれに従い荏原城を開城し、以降
荏原城は廃城となった。

慶長5年(1600)、関が原の合戦が勃発すると、領主加藤嘉明が東軍に荷担したため、平岡直房がお家復興を策し、一揆を起こした。

直房は、平岡氏累代の居城である荏原城に籠城、加藤軍を迎え撃つが、加藤軍によって一揆は鎮圧された。


    
 戦前の写真と図面で、堀幅も16mある。
 




   

現在の堀はかなりの部分が道路になっている。 右は東側の堀の上の土塁。

この頃の農家

 布教のために日本に来たフランシスコ・ザビエルがバチカン宮殿に宛てて書いた書簡(「ザビエルの見た日本」ピーター・ミルワード著、1998

の中や幕末に来た欧米人が数多くの記録を残している。それらを簡単に列挙すると、


1.日本人は箸を使って食事をする(当時のヨーロッパ人は手掴み)。

2.毎日のように風呂に入る(西欧では週12回程度シャワー)。

3.トイレは戸外にある(西欧はバケツに入れて道路に捨てた)。

4.家は板葺、藁葺で極めて小さく、家具類がほとんどない。

5.子供が子供の面倒をよく見ている。

6.家父長の権限が強い、などが挙げられている。

台風や地震など災害で絶えず破壊され、また江戸時代以前では、戦で焼き打ちや略奪にあうため必要なもののみにとどめる

極めて簡素な作りであったようだ。

                                                                                                                                               

4  
江戸時代

検地

太閤検地に続いて江戸幕府も幕藩体制の確立のため、全国的に検地を実施した。ここには河原村が見られないが、この当時村としては存在せず、

ようやく天保5年(1834)に南高井村から分村して河原村となっている。


江戸時代のコメの収穫量推移
        

村  名 慶安元年(1648 元禄三年(1690) 天保五年(1834)
荏原町村 7257 7257 7409
中野村 2103 2103 210
東方村 11186 11186 11444
上野村 6894 6894 7836
西野村 2162 2162 247
津吉村 788 7884 8451
小 村 不明 2067 531
浄瑠璃寺村 4944 4944 497
久谷村 5804 5804 5826
窪野村 301 301 301
総石高 4,824


江戸時代、一人が1日に食べるコメの量を5合とした。それをもとに1年間に必要な量が1石である。玄米5合は白米なら約780グラム。

宝暦十二年五月晦日1762)の調査では、浮穴郡には荏原、井門、拝志、出部の4つを郷名とし、99か村が存在。

その総石高は3万5千656石6斗1升。


江戸時代の小字名

村  名

小 字 名

荏原町村

新張、上組、町組、下組、横道、八塚

中野村

三本木、本村(ほんむら)、上ノ原(かみのはら)

東方村

矢谷、井関、岡本、町組、六丁、政友、岸ノ上

上野村

一木、中組、土段(どんだ)、今市

西野村

上組、中組、下組

津吉村

西組、中組、東組、北組

小村

小村一、小村二

浄瑠璃寺村

上組、中組、八坂

久谷村

出口、中組、奥久谷、榎、大久保、𧃴;川

窪野村

本組、中組、北谷、桜、宮方、関谷、丹波



享保の飢饉

江戸時代の3大飢饉(享保、天明、天保)のうち松山地方では特に享保の飢饉が激烈で未曽有の災害をもたらした。
享保17年(17325月頃から降り始めた雨は、麦の成熟・収穫期とも重なって、収穫は腐敗のため皆無となった。
長雨による稲の病虫害、特にウンカの異常発生で稲は枯死したためコメの収穫もほとんど皆無となった。

高知藩士が用ありて享保17年(1732)松山へ行った時の手記「予州へまかりこす日記」の中に次のような文がみられる。
「三坂峠を下り荏原村と申す村に出で、それより重信川を渡り、居合村より松山城下に至る間、田地に青き稲としては
無之ただわらの如く相成り居り候。重信川べりには、青き稲少々有之候。此国本年は近年になき大凶作なりと
人々申され候。」


享保の大飢饉による死者数は次の通り。常光寺の過去帳は明治14年の火事のため焼失して残ってないので、
荏原町村の死者数は不明だが、下の表を見ればおおよその察しはつく。


年と寺名

心行寺

大連寺

浄瑠璃寺

道舊寺

円福寺

享保16

享保17

享保18

享保19

28

144

108

22

19

76

68

10

14

28

41

10

7

54

72

18

12

10

15

5

合 計

302

173

103

151

42

次の写真は常光寺に安置されている慰霊碑である。

 左側には「餓死百回忌 天保弐年卯年八月」と読める。享保19年から100年後が天保2年となる。

右側の碑は文字の判読ができないが、 同じく餓死者を祀ったものであろう。

 

   
松山市史によれば、
   3
月頃から気候不順で根腐れのため麦は3分作となった。
   5月下旬からの雨は7月上旬まで続き、河川氾濫、砂入り、
   
 水押しのため稲は立ち腐れて枯死。


   6月中旬は大量のウンカ発生。

 従来の米価は2俵で銀30匁だったが、11月初旬には750匁まで暴騰。

   享保17年松山藩が幕府老中にあてた被害届書によると、

   餓死数は男2.213、女1.276、計3.489名、死んだ馬は1.430頭、牛は1.694頭。

 ほぼ餓死数の1割は荏原地区にあったと想像される。
この年日本全国での餓死総数は10.272人であるから、

  松山藩の被害が甚大だったことが分かる。



江戸時代の村方支配と農家の生活

映画やテレビで見られるような極貧の世界ではない。松山藩の場合、100石から300石の中堅武士3名が荏原村などを支配する郡奉行所(代官所)

に勤務するが、毎月交代となっている。足米高(タシマイダカ)が100石、役料が20俵与えられる。彼らの下には、手付4名、物書3名、遣番4名の

下級藩士が勤務する。1625年から1808年まで郡奉行所が担当したが、それ以降は代官1名が要務をこなす。


代官所は、周布、桑村、越智、野間、風早、和気、温泉、伊予、浮穴、久米の10郡と久万山、島方の2か所があった。代官は郡に1名配属され、

その支配下には手代、月番、遣番が勤務。
浮穴郡の場合、手代(6石2人扶持から8石2人扶持の足軽身分)が5名いた。

村の構成として、庄屋、組頭、長百姓(以上は村方という)のもと本百姓、平百姓、水飲百姓、小作人がいる。恵原の場合、庄屋は固定してなく、

輪番制であったようだ。


庄屋も松山藩の場合、大庄屋(1郡を束ね、2名程度で藩から3人扶持を与えられる)、改庄屋、庄屋、平庄屋、庄屋挌などかなりの差があった。

江戸時代の自衛組織としては「五人組」が存在した。村では長百姓が近隣ごとに5戸前後に編成し,各組に組頭などと呼ばれる代表者を定め,

それを庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり,領主はこの組織を利用して治安維持・

村方内争議の内済・年貢確保・法令の伝達周知徹底などをはかった。また村ごとに五人組帳という帳簿が作成された。これは普通前書として

百姓が遵守すべき禁令・徳目・義務を,おもに幕府の法令から抄出記載し,その後に組ごとの人別,および各戸当主・村役人の連判を記した

ものである。荏原村の五人組帳は現存していない。


江戸時代の農家の暮らしは、「朝は朝星、夜は夜星」という表現が残っているように明け方から夕方まで労働に励んだだろう。子供は働き手

として期待され、一家に5人以上はいた。一年を通して休めるのは、お正月、節句、お盆、秋祭り程度ではなかったろうか。その時は白米のご飯を

たくさん食べたことだろう。平百姓以上は牛を飼っていた。家の中には牛舎があった。


一日三食になったのは江戸時代だが、農家では農繁期には朝・夜以外に朝10時頃、12時頃、3時頃あぜ道で食べる「おちゃ」という習慣があった。

普通の農家は3部屋ぐらいで押し入れはなく、布団は部屋の片隅に重ねる。裕福な家以外は畳ではなくムシロの上で起居。丸い「ちゃぶ台」という

食卓を使うか囲炉裏の周りで家族全員が団欒しながら食事をした。風呂は「五右衛門風呂」という鉄製のもので、井戸から水を汲み、沸かすのは

子供の役目。長幼の順で湯に入る。家の外にあり、屋根のない場合が多かった。どの家にもあるわけでなく、たらいで行水を済ませた家庭も多かった。


詳しいことはすでに本などに書かれているのでここでは省略する。

 左の写真は、徳島県鳴門市大麻町坂東に
  残っている明治時代の農家だが、
  江戸時代のものとさして変わりはない

  この写真は高松市の「四国村」に
  保存されている農家の内部である。
   江戸時代における恵原の農家と
     大差はないと思われる
 江戸時代の幕末期に外国人が撮った農夫の写真。

 荏原地区の農民と大差ないだろう


常夜灯

そのほとんどは、今から約200年前、村や小集落(組や小字)の中心地や境などやや広い場所に地元の人たちが自然石を

組んで建立した。権力者の命に基づくものではない。組の人たちが順番
に明かりを灯したり、家内安全や村内(組内)安全を

祈ったという。農耕や行事など、大切な相談
祀りを行う聖空間(浄域)でもあった。その証として今も神事用の注連縄が使われている。



常夜灯から連想する夜間の交通安全や防犯を目的とする現在の街灯とは意味が違う。むしろお地蔵さんとともに庶民の暮らし

の心の在りかを象徴するものだったというのが適当だろう。現在も神輿
が休憩する御旅所となっているのはその名残であろう。



夜間灯すのは菜種油か蝋燭だが、江戸時代は結構値がはる。したがって、大切なとき以外は灯さなかったと考えられる。

明治に入ると蝋燭も安くなってきたが、それでも毎晩灯したわけではない。
昔の人は、日が沈むと家にこもり、夜間出歩くこと

はまずなかった。


 左の写真に見えるように、石に「金」「三」 「石」という文字が見られる。

 「金」は金比羅さん、「三」は三島神社、「石」は石鎚さんを意味する。

 これ以外に、「氏」があるがこれは氏神さんのこと。

 そういったものを大切にして家内安全や組内の安全を願ったものであろう。
 
 常夜灯は、本来、石に刻まれている金比羅山、三島神社、石鎚山、
 
 氏神さんの方向に向けられていた。


新田開発

弘化3年(1846)の「浮穴郡手鑑」によると江戸初期から明和2年(1766)までに開発された新田の面積は次の通り。

 

 

村 名

新     田

新  田

新  畑

合  計

恵原町村

1

2

2

21

1

2

2

21

西野村

9

9

1

2

0

2

24

3

0

1

24

東方村

3

0

21

3

0

21

小村

5

9

24

4

5

1

0

4

24

津吉村

1

0

9

13

1

0

9

13

中野村

1

5

6

11

1

5

6

11

河原分

3

16

 

3

13

3

6

29

上野村

4

7

0

25

3

4

0

1

8

1

0

26



納税と地坪

封建時代における農民の最大の義務は米穀で納める納税であった。幕府や諸藩はこれを完納させるため年貢を村単位に課し、

村全体の責任とした。年貢の中で一番大切なのは「本物成」ともいわ
れる米穀で、検地によって算定した村の収穫見積高、

別名村高に税率をかけて徴収した。


「本物成」とは別に「小物成」というのがあり、弘化3年(1846)の「浮穴郡手鑑」では、入木銀(村から上納する薪を銀子納める)、

御山札銀(村の山に課せられる)、藪御請銀(村内の藪に課せられる)、上り苧銀(カラムシと読む。苧の収穫に課す)、上り真綿銀

(綿の収穫に課すもの)の5つが恵原町村に課されていた。その公課は次の通り。


   入木銀(328匁2分厘)      御山札銀(80匁5分)    藪御請銀(8分厘)

        上り苧銀(4冠8227分)    上り真綿銀(314匁)


「本物成」

年貢には検見法と定免法があった。検見法とは、その年の作柄を調査し,収穫量を認定してから
年貢額を決める方法。
一方、定免法は、過去数年ないしは十数年の収穫高の平均を基礎として租率を定め,3カ年,5カ年,
10カ年などの一定期間中,原則として,年の豊凶にかかわりなく定率の租税をおさめる方法である。
期間の延長継続を継年季(つぎねんき)といい,不作のはなはだしい年は願いにより破免が許された。

領主地主の安定と貢租の増徴が目的。村単位に課税されるため,初めは大農に有利,小農に不利で
あったが,生産力が高まるに従って,農民に余剰をのこす一つの条件となった。
松山藩の場合は、久松氏入部以来定免法をとっていたが、税率が高く一般農家はかなり疲弊した。
寛永13年(1630)には検見取りに改めている。さらに、寛文7年(1667)にはまた定免法に換えて
以後明治まで続く。
次に村の取れ高と定免法を示す。数字は割合である。4.6とは4
6分のこと。
        

コメの単位

寛永11年から
正保2年

寛文7年から
延宝元年

元禄10年から
享保11

宝暦5年から
明和8

安永元年から
天保12

天保13年から
明治3

恵原町村

725

0

7

0

3.4

6.1

6.2

6.2

5.9

5.7

東方村

1118

6

8

0

4.6

6.0

7.3

7.3

7.3

6.75

津吉村

522

0

9

4

1.5

5.0

6.1

6.2

6.2

6.2

中野村

240.

3

1

2

1.3

4.0

2.3

2.4

2.4

2.6

小村

26

7

3

3

1.9

5.0

4.5

4.8

4.9

5.1

上野村

689

4

4

0

3.7

6.2

7.8

7.8

7.7

7.4

河原分

31

0

7

0

2.9

6.5

8.4

8.4

8.4

8.8

西野村

242

3

4

4

1.5

4.1

4.5

4.3

4.2

4.3



池の築造

弥生時代のもたらされた水田耕作は飛躍的な人口増加を呼び、それにともなって耕地も広がっいった。しかし、自然のままの水では

不便で不足となる。水路を広げたり延長しても元となる水源地
が必要。衆知を絞って最適地を選び小さいながらも時間をかけて

池を造ったことだろう。


今のような大規模の池がいつ作られたのか、証拠となる文書が残ってない。土用部池の北側に残る遍路案内標識は「貞享4

(1684)」のものであるが、土用部池や新池のような大きなものは世の中が安定した江戸時代に作られたことは間違いない。

土用部池のように三方を堤防で囲む築造は、村単位ではなく郷あるいはそれ以上の範囲から人を動員するよう藩からの命令があった

ことだろう。村全体には出役が課せられ、完成までには相当長期にわたったことだろう。


土用部池は平成13年3月土手の改修事業終了。


                                                                                                                                      



5      明治以降

この時代からは特別なものを除き、次のページから時系列的に書いてみたい。


明治5年(1872)の戸数・人口等

「愛媛県史概説(昭和34年刊)によれば、明治5年における浮穴郡郡は25か村。

人口は、3,414人。判明している戸数は次の通り。

恵原村、西野村、浄瑠璃寺村あわせて357戸。上村、津吉村、中野村、東方村、小村で496戸。窪野村、久谷村で335戸。

  *上記の分類は当時の郷に従ったもの。


小学校の発足

明治5年7月「学則の制定」により学校を設置。恵原町村には「鳳鳴小学校」があったが、位置が不明。その他、津吉に「徳明」、

中野に「謄明」、東方に「知新」、上野に「済美」があった。

明治20年、「小学校令発布」により東方尋常小学校に上の5つの学校は統合される。当時の小学校は4年課程で授業料は8銭。

学課は、修身、読書、作文、習字、算術、図画、体操の七科が指導科目となる。その年の卒業生11名。

以降、明治26年までは10名前後で推移。明治27年以降になって卒業生が20名を超す。



地租改正

明治26728日、太政官布告第172号により地租改正を公布。このとき、土地の沃瘠、耕作の便宜、種子や肥料の程度、

水問題について総代の意向を中心に調査をしながら村別の等級表を作
成した。


村 名

等 級

村 名

等 級

荏原町村

3等上級

西野村

8等中級

上野村

4等上級

中野村

9等上

東方村

5等上級

河原分

11等上級

津吉村

7等下級

小村

11等中級

                 これで見ると、荏原地区では恵原町のコメの品質が一番良かったことが分かる。

             
ちなみに、1等上級は「田窪村」で、以下恵原までには南方村、上林村、下林村となっている。


 以下、時系列で表示 (人名は総代など個人情報として支障のないものに限り掲載した。数字は編集の都合で、漢数字とアラビア文字が

混合する。原典は恵原町惣代に引き継がれている引き継ぎ文書から)。内容が相当な量のため、一応明治をもって区切りとしておく。
 

明治時代

西暦

明 治

主 な で き ご と

1871

11

松山・今治・小松・西条の統合により「松山県」誕生

1872


松山県を「石鉄県」に改称し、宇摩・新居・周布・桑村・

越智・風早・和 気・温泉・久米・浮穴・伊予の12郡561村とし、

各村は庄屋が里正
いう名前になる。その時の里正は次の通り。

荏原町村

光田房太郎

西野村

宮脇清九郎

上野村

宮脇猪十郎

中野村

橘 保清

東方村

渡部 操

河原分

武井 正三郎

津吉村

宮脇 数衛

小村

池田左太郎

1873

20

石鉄県と神山県が統合して愛媛県となる。
1874  

  5

 20
風早・和気・温泉・久米・伊予の一部から「第六大区(71の小区)」を創

設。その大区には77町133村があり、大区に区長1名と副区長2名

が置かれる。

1876

21


府県の統廃合により浮穴郡は風早・和気・温泉・
久米・伊予郡とともに第13区(71小区、77町、
132村となり、津吉、中野、河原、小村、東方は
第8小区。恵原、窪野、久谷、浄瑠璃寺は
第8小区、西野、上野は第10小区となった。
その時の戸長は、

   第8小区――岡田正客    第8小区――来住信貫   

第10小区――宮脇庫蔵

1878

11


「郡区町村編成法」により7か村は「荏原村」となる。なお上部単位の

郡は「下浮穴郡」。なぜ「荏原村」と恵原の旧称が用いられたかは、

7か村の中で土佐街道があり、街道に沿って多くの民家、店、旅館など

があって荏原はその中心地であった。道路幅も当時はどこよりも広か

った。そいう事情に基づくものと考えられる。

この時の郡役所は森松に置かれ、恵原を含む下浮穴郡の人口は38,

474名。戸長数は36名。

1888

21

下浮穴郡に統合があり、14か村となる。

  三内、南吉井、浮穴、拝志、荏原、坂本、原町、砥部、広田、中山、

上灘、下灘、佐礼谷村の各村。

西暦

明 治

主 な で き ご と

1891

24

1

18

総代―水口頼次郎

11

26

規約第3条の委員数5名とあるを7名に変更す。

1892

25

1

18

総代―山口清一郎

恵原町組組織定数および給料支払い法第6条により次の役を置く。

水配役、墓地管理役、水引、樋抜、水廻し、山番

嘉之助橋建設。

    費用 金738円71銭

    内訳 163円24銭9厘(前年度繰越金)   

        118円11銭1厘(戸別割)

        337円35銭(寄付と特別寄付金)

1894

27

12

総代―水口頼次郎

恵原町に駐在所が設置され、砥部駐在所恵原分所といった。

この年、赤痢が発生し、かなりの死者がみられた。

部落名

発生戸数

患者数

内死亡者数

恵原町

11

58

14

東方

29

58

10

津吉

25

41

15

中野

12

上野

14

86

15

西野

合 計

86

259

58

1895

28

8

18

暴風のため被害多し。

1896

29

1

伊予鉄道森松線が開通。

1897

30

4

「下浮穴郡」から垣生村と余土村を加えて「温泉郡」となる。

9

15

大旱魃の被害多し。

1899

32

3

21

総代―山口清一郎

4

嘉之助橋、古市橋の幅を2尺拡張。

1900

33

4

1

東方尋常小学校に高等科併置。

7

水引給改定。

水氷ー260銭 新張ー260銭 高木ー220

かじや上ー240銭 八塚ー260

1901

34

1

9

総代―山口清一郎 

6

18

33年より物価低迷に尽き田植その他の賃金は次の如し。

男日雇いー18銭 早乙女ー13銭 田耕賃ー50

男日雇い平時―白米一升 同女―6合

10

19

駐在所新築。

1902

35

5

久谷川架橋着手。在来の嘉之助橋より下方の恵原町字伊勢大神に
通じる場所。

1903

36

1

4

総代―大森宇作

13

恵原町共有金取扱規定作成。

3

9

松山第22連隊行軍で恵原町に宿泊。

6

1

物価高騰につき田植その他の賃金を以下のように相定める。

男日雇い1日―20銭 早乙女ー16銭 請負田植壱反―22銭

田耕賃―60銭 むくちかきー25銭 草採賃―1円20銭

1904

37

5

20

日露戦争と軍人遺族の困難を救助するため部落から125円を拠出する。

7

5

日露開戦に応ずる軍人救護評議員選挙により2名が選出される。

9

30

本年は時局に対し社祭礼の際神輿の渡御を見合すことに決定。

1905

38

1

1

総代―大森宇作

3

14

荒神社御殿新築決定。

4

18

恵原町道路修繕箇所。

1 新張組中より浄瑠璃寺境 2 南組中より辰次北石橋四ッ辻境

3 町組中四ッ辻より北組堺 4 町組堺より水口渡宅まで

1906

39

7

8

松本池大破。

9

5

松本池埋め立て及び本樋等再築委員選出。

1907

40

1

1

総代―大森宇作 氏子総代―山口清一郎

4

19

前年大破改修の松本池作18日より使用可。

1908

41

1

17

総代―宇都宮磯十郎

21

常光寺と心行寺合併問題につき檀家委員および檀家総代と共に合寺の論につき古城堀跡地全部供給せよといいし。我が檀家委員承諾せずして三日間の余裕をもって再会を約して解散す。

8

22

東方より要求せられたる心行寺、常光寺合意の上合寺をなすを決しお

りそのため真言僧侶丹生谷氏上京。浄土宗管長の所へ寄り右合寺の

件を依頼いたしおり。さる7月中旬帰郷し右の模様を心行寺において

檀家総代および恵原の宇都宮磯十郎を遣わし、真行寺へくだんの件

を聞きに行く。結果、合寺は所詮規則上できざること。第2の手段とし

て移転という方法にて合寺の進行なら委細承知。(一部略)恵原として

は合寺を止め常光寺の維持の出来得る様資金を積み立て将来も以

前の如く独立で常光寺維持をなすことを決定す。

12

17

氏子総代―福田保二郎

1909

42

総代―大森宇作

以下の道路と橋が完成。

関係する戸数681戸から1戸当たり3銭9厘の賦課金を課し、別の部落からも1戸平均36銭の寄付を受けて、材木による古市橋架増を計画。

恵原町横道から仰七角まで及び同所から嘉之助橋まで。

西野と恵原町の境から嘉之助橋まで。

1910

43

4

1

素鵞神社を諏訪神社境内に移転。

6

諏訪神社正面遍路道新道改修の件土地買収につき落着。

恵原町、西野、上野地区の耕地整理(計23町歩)に着手。

12

18

区長兼組合総代―山口恒一郎 氏子総代―水口頼次郎

1911

44

6

30

総代宇都宮磯十郎家政の都合により辞退。選挙の結果水口頼次郎を

組合総代とする。

1912

45

7

30

今上天皇陛下御崩御。茲に大正元年となる。

 荏原小学校の校歌を作った作詞家の誤解に基づいたものが、広がっています。




久谷地区の疑問あれこれ

「大友山」を読むとき「おおともやま」か「おおどさん」か。どちらが正しいの。

正解は「おおどさん」です。室町時代の古文書に「大堂山」とか「大戸山」とか書かれています。今のように使う漢字が決められてないか、

または書いた人が適当の漢字を当てはめるかします。


「大堂山」とか「大戸山」は現在でもだれが見ても、「おおとも」ではないですね。

なお、荏原小学校の校歌では「おおとも」になっていますが、作詞家が間違えたことがわかっています。



○ この地域をなぜ「久谷地区」というのですか。

昭和31930日に坂本村3町)と荏原村9町)が合併し、その時名前が公募になりました。

当時一番山奥で森林を持つ久谷が猛烈に運動した結果、「久谷村」が生まれました。

漢字を分析すれば、「久」は長い意味。なので谷の長い村、というわけです。確かに久谷地区は、北側を除く三方が山に囲まれ、

特に南北が長い地域です。大昔から最近まで久万(土佐)海道が走る恵原を中心とする荏原が栄えた場所でしたから、荏原村

になっていた可能性もあります。



   「恵原」と「荏原」の両方があるのですが。

地名が付けられた大宝時代、荏胡麻がよく取れた場所が荏原でしたね。そこをさらに久万高原町や高地とつなぐ道路ができて、

松山南部では一番栄えた場所となりました。なので、荏原村から荏原町村へと変わります。「町」は道路、住宅密集地が語源ですから、

町が付いた理由がわかりますね。

江戸時代、1700年代、荏胡麻が取れない理由で、庄屋が藩に申し出て荏原町村を恵原町村に改めてもらいました。

明治になって江戸時代の上野、西野、東方、津吉、小村、荏原、中野の7村を統一した時、村の中心は荏原にあるという理由で

「荏原村」になりました。それが昭和31年(1961)まで続きました。



○ 山には大友山、勝山、富士山のように特殊な「皿が峰」とか「槍ヶ岳」を除いて「山」がつきます。ところが、、津吉と東温市の境に

なる山は「尉の城」なんですが、なぜでしょうか。

それは久谷地域を支配していた地頭の「土岐」さんが、六位相当の官職である左衛門尉、右衛門尉に任ぜられたか、自称か

分かりませんが、最後についている「尉(じょう)様の住むお城」が短くなって、「尉の城」となったようです。

「三坂」 「御坂」のいずれが正しいの。

定説はありません。たとえば、江戸時代の遍路案内の本には「見坂峠」が使われています。「この漢字を使いましょう」のようになったのは

明治になって教科書が普及してからじゃないかと思っています。

峠の場合は「三坂」を、川の場合は「御坂」と今は使い分けています。

なお、久谷中学校の校歌で間違えていますが、久谷川は坂本小学校から南300mぐらいの地点で右を流れる川です。

いわば御坂川の支流です。

      


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