久谷地区の神社と神々



主な項目
  神社の起源      
  葛掛五社神社     正八幡神社      勝山(天満)神社     金毘羅神社
  素鵞(生目)神社     春日神社         諏訪神社         大宮八幡神社
  小村稲荷神社      竜神社          中野素鵞神社        徳川神社
  三島神社          神輿と獅子舞     鉢合わせ


所在と神社名




神社の起源


 縄文時代以前は200人程度の住民が血縁集団の村落を作り、自分たちの団結のよりどころとして土地の
守り神を信仰していたようである。                                                   
 大和朝廷の全国統一が始まる3世紀末ごろから、村落をおさめる首長が朝廷に従うことになる。5世紀には
朝廷の下に出雲氏、吉備氏など大きな地方豪族の下で村落の首長が組織化されたが、朝廷は自分たちの神々
を地方に強制はしなかった。そのため、地方の神々はすべて朝廷の守り神の親戚や家来の神とされた。                                                                                  
(氏神様について)                                                        
 『氏神様のもとは地域の守り神で特定の名前はなかったようだ。村落を守ってくれるものとして「み霊」「神」
「命(みこと)」と呼んで敬っていた。古代の人は、すべての人間が体の中に「たましい」という清い心を持つと考
えた。肉体のない「たましい」だけの存在を神と信じた。「神」は「上」で人の上にある空にいるものを指す言葉
である。また「命」は「み言」で命令を下す力を意味する。』                    
  日本が統一されるに従って各地の神様は固有の名前を持ち始める。「宇佐の神」「佐太の神」など他の神と
の区別のためである。朝廷の祖神は大物主神(おおものぬしのかみ)であったが、地方豪族が祀る大国主命と同格
であるとした。                                      
  6世紀になると、朝廷は自家の祖神は大国主命よりはるかに格の高い天照大神であると唱え始めた。
やがて地方豪族も祖先神や地方の神は天照大神の親戚や家来の神という神話が作られる。そのため今日の
神道は皇室を中心に置く。国内すべての神が天照大神に従属するため、他の神々は天照大神に守られること
になる。
  神社の起源は、磐座いわくら)やの住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に臨時
に建てた神籬ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではなかった。元来は沖縄御嶽ウタキ)のよう
なものだったと考えられる。古代から続く神社では現在も本殿を持たない神社があり、磐座や禁足地の山や島
などの手前に拝殿のみを建てているところもある。神社に社殿が設置されるようになる過程には仏教寺院の
影響もあるとされる。神社には常に神がいるとされるようになったのは、社殿が建てられるようになってからと
言われている。神はもともと山の麓にいるものと考えれら、そのため神社を平地に移してもその名残をとどめる
ため敷地を木で囲った。  

(分社の始まり)                                       
  平安時代半ばになると武士が起こり、古代豪族の系譜をひく首長などから自立した武士は、中央有力公家
の庇護下に入り、地域の氏神とは異なる神を自領のものとして崇めるようになった。鎌倉時代に入ると、地方
の武士の勢力が拡大し武士の所有する地域に自分が信仰する神社を設けるようになった。

(神仏習合)                                                    
 飛鳥時代以降、国内に仏教が広まり多くの寺院が作られる。平安時代には神社側が自分たちが取り残され
るという危惧を抱き始めた。そのため、神社を支配する豪族や武士が僧侶を雇って神前で仏事を営ませ、ここ
に神仏習合が始まる。

施設                                                     
 神社の周りには鎮守の杜と呼ばれる森林があるのが一般的である。御神木といわれる名木には、注連縄
を結ばれているものもある。神社の入口には、境内と俗界の境界を示す鳥居があり、社殿まで参道が通じる。
参道のそばには身を清めるための手水舎(手洗所)、神社を管理する社務所などがある。大きな神社では
神池
神橋がある場合もある。
社殿は一般に本殿(神殿)・拝殿からなる。人々がふだん参拝するときに目にするのは拝殿で、御神体が安置
される本殿は拝殿の奥にある。
その他                                                         
 久谷の神社の向きは南と東側になっている。『天子は南座す』という中国古来の言葉に従ったもので皇室に
ゆかりのあるものは南側を向き、出雲にゆかりのあるものは東を向いていると考えてよい。家の神棚も南向き
か東向きになっている。

久谷地区の神社の祭神一覧

葛掛五社神社

一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)

罔象女神(みずはめのかみ)

国狭槌神(くにざずちのかみ)

埴安神(はにやすのかみ)

金山彦神(かねやまひこのかみ)

大宮八幡

応神天皇

神宮皇后

仲哀天皇

武内大臣(武内宿禰)(たけのうちのすくね)

豊玉姫命(とよたまひめのみこと

田心姫命(たこりひめのみこと

湍津姫命(たぎつひめのみこと

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと

正八幡神社

玉依比売命(たまよりひめのみこと)

帯中比古天皇(たらしなかつひこのみこと)

品陀和気天皇(ほんだわけのみこと)

息長帯比命(おきながたらしひめのみこと)

小村稲荷神社

玉依比売命

帯中比古天皇

品陀和気天皇

息長帯比売命

勝山神社

御光神社

猿田彦神社

金山彦神社 

金毘羅神社 

大物主尊 

素鵞鳴命

竜神社

瓊々杵命(ににぎのみこと)

伊弉冊命(いざなぎのみこと

宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)

金毘羅神社

金毘羅

中野素鵞神社

素鵞鳴命

生目(素鵞)神社

素戔嗚尊(すさのおのみこと)

奇稲田姫(くしなだひめ)

徳川神社

面足命(おもだるのみこと)

惶根命(かしこねのみこと)

大山積命(おおやまづみのみこと

雷神

高麗神

春日神社

素鵞鳴命(すさのおのみこと

三島神社

高麗神

雷神

摂社十六皇子

諏訪神社

健御名方命(たけみなかたのかみ



以下に少し詳しく各神社について述べてみる。



葛掛五社神社


(この神社には鳥居が見当たらない)


(由来)                                                            

文武天皇が持統天皇から譲位をうけた年(701)の8月、大和(奈良県)の葛城山から役小角(えんのおずの)
をお迎えし、そのころ大木が生い茂って昼でも薄暗い奥久谷の場所を切り開いた。その地を「表田
(おもてだ)」と
名付け、そこを基にその後の開墾や伐採を行う人が住めるように役小角
を中心に掟を作りました。

役小角その時、葛城山から「一言主大神」の御神霊をお迎えし、表田の鎮守としました。例祭は1212
になっています。

河野氏の時代(1181-1587)、一族のものが歴代この神社を崇め、旱魃のときはここで雨乞いを行い、
その他いろいろな願いごとやお祈りも行うなど由緒深い神社です。

天保8(1837)に起きた火災のため、神社や宝物、記録などが焼失。現在のものは天保118月に再建
された以降のもの。

神社の周辺にはウラジロガシ、イチイガシ、カゴノキ、ヤブツバキなどの巨木が残り、松山市指定天然
記念物になっている。

       
                                  (拝殿奥)           左から「厳島社」「宇波社」「新田社」

(神様について)

 この神社に祭られている神様は、「一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)」のほか「罔象女神(みずはめのかみ)
「国狭槌神
(くにざずちのかみ)」「埴安神(はにやすのかみ)」「金山彦神(かねやまひこのかみ)」など5つの神様が祭られ
ているため、五社といわれている。

 

「一言主大神」

  Wikipediaによると、この神は460雄略天皇4年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、
紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見つけた。
雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言いはなつ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。
天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神
はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。

 葛城山麓の奈良県御所市にある葛木一言主神社が全国の一言主神社の総本社となっている。


「罔象女神」

 古事記の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産
巣日神
ワクムスビカミ)とともに生まれたとしている。日本書紀の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神
ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビノミコト)が生まれた
としている。

神名の「ミヅハ」は「水走」と解して灌漑のための引き水のことを指したものとも、「水つ早」と解して水の出始め
(泉、井戸など)のことともされる。

灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる。


「国狭槌神」

山の神の大山祇命、野の神の鹿屋野比売命(かやぬひめのみこと)二神から生まれた神で、「狭」は坂のこと、
「槌(土)」は草の意がある。草の茂る丘を守る神と考えられ、野・山の神の両親の命を受け、低い山々の守護
を分担した神である。


「埴安神」

 イザナギイザナミの間に産れた諸神の一柱である。日本書紀では埴安神と表記される。古事記では、
火神を産んで死ぬ間際のイザナミの大便から波邇夜須毘古神波邇夜須毘売神の二神が化生したとする。

 地鎮祭で、土の神として他の神とともに祀られることがある。


「金山彦神」

神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷のため病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり
から化生した神である。古事記では金山毘古神・金山毘売神の二神、日本書紀の第三の一書では金山彦神のみ
が化生している。神名の通り「金山」(
かなやま、鉱山)を司る神で、嘔吐物から産まれたとしたのは、嘔吐物の外観から
の連想によるものと考えられる。鉱山を司り、また荒金を採る神とされ、
鉱業鍛冶など、金属に関する技工を守護
する神とされている。

                                                                     
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正八幡神社


(由来)

 延久2年(1070)8月15日、伊予国司の源頼義が山城の国(現在の京都府)の石清水正八幡神社から神霊を
御勧請され、窪野の北谷に祭られたという言い伝えがある。

 その後何度も流失したりしたため佐伯氏が自分の土地を寄進して現在の位置に本殿を建立した。

 弘安4年(1280)、蒙古来襲の際、伊予国司だった河野通有、河野通純が国を守り蒙古を打ち破ることができ
るようにと祈願をした時に「このお願いを聞き届けくださりましたら、神殿をもっと立派に立て直し、田畑を奉納い
たします」と誓って出陣した。彼らは運よく蒙古軍を打ち破り無事に凱旋したので、神前での誓いを守って神殿を
建て替え、田畑を寄進しました。

 天文12年(1543)8月河野通宣の妻が願掛けをする際大般若経を写して奉納しましたが、その写経は今も正八幡
神社に保存されているそうです。

 毎年8月21日には「風鎮祭」が行われ、神社で祝詞があげられ、太鼓が打ち鳴らされます。僧侶たちの大般若経
の読経とともに祭事が始まり今になお引き継がれています。

    

(平成19年9月10日に新装なった木造鳥居)               (拝殿奥)

 

          
(市指定クスノキ 樹齢300年以上) (秋山好古大将の揮毫)         「不善之百殃」

                         「作善降之百祥」

(神様について)

 祭神は「玉依比売命(たまよりひめのみこと)」「帯中比古天皇(たらしなかつひこのみこと)」「品陀和気天皇(ほんだわけのみこと)
「息長帯比命
(おきながたらしひめのみこと)」が祭られ、窪野の氏神様になっている。


「玉依比売命」

 綿津見大神(海神)の子で、トヨタマビメの妹。天孫降臨の段およびウガヤフキアエズの段に登場する。
トヨタマビメが産んだ
ホオリの子であるウガヤフキアエズ(すなわちタマヨリビメの甥)を養育した、後にその妻と
なり、
イツセイナヒミケヌ、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)を産んだ。

全国にタマヨリビメという名の神を祀る神社があり、その多くはその地域の神の妻(神霊の依り代)となった
巫女を神格化したものと考えられる


「帯中比古天皇」

 仲哀天皇のこと。生年不詳 - 仲哀天皇92月62003月8))は、『古事記』『日本書紀』に記される
14代の
天皇(在位:仲哀天皇元年1月111922月11 - 926日(20038日))。「タラシヒコ」
という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実
34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12,13,
14
代の称号は後世の造作ということになり、仲哀天皇の実在性には疑問が出されている。


「品陀和気天皇」

 西暦372年に、8歳の年齢のときに即位。そして394年に、30歳で逝去したので、その治世は23年間に及んだ
ことになる。日本書紀の記事も、積算すると、ちょうど23年分あることになる。
 古事記では、逝去時の年齢は「130歳」だったとされていますが、真の年齢に「一百」の字を加えただけのこと。
 品陀和気は品陀真若王(
ホムダマワカノミコ)の子で、品夜和気(ホムヤワケ)(応神天皇1)の弟にあたる。
 品陀和気が誕生したのは365年になるが、それは帯中日子が逝去してから3年後のことであり、その本人が
「胎中天皇」ではあり得ないことを示している。


「息長帯比命」
 神宮皇后のこと。紀』では気長足姫尊おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命おきながたらしひめのみこと)・
大帯比売命
おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。 父は開化天皇玄孫・息長宿禰王おきながのすくねのみこ)で、母は
天日矛裔・葛城高顙媛かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王4世孫、応神天皇の母。




勝山(天満)神社


(由来)

 光明天皇の御代、仁和丙午(884)正月に菅原道真が讃岐守に任ぜられ、4月に讃岐(香川県)にある滝の宮
にある官府(役所)に赴任する際、隣国の生活や風俗習慣を見てくるように指示されていた。そのため仁和4年
888)2月に伊予国宇摩郡から順に見て回り、上浮穴郡久万山や菅生山
(すごうやま)へ行く途中、北久谷、片山
に宿泊。

 ほぼ60年後の天慶年(942)9月25日に、越智安家(おちやすけ)の人々が大宰府に赴き、菅原道真公の御神霊
をお迎えして、現在地に祀ったといわれる。

 愛媛には他に24の有名な天満宮がります。このお宮を立てたのは河野一族であり、また河野が支配する領土
の砦もかねていました。いつしか葛城の領主がこの天満宮を守るようになり、現在は久谷中組の人が祭りをして
います。


(神様について)

  「御光神社」 「猿田彦神社」 「金山彦神社」 「金毘羅神社」 「大物主尊」 「素鵞鳴命」が祀られている。

   

          (拝殿)                        (拝殿奥)

    

      (神殿付近)                     (お百度石)

「御光神社」

 どのような神なのか不明。


「猿田彦神社」

 日本神話によれば、猿田彦神はニニギの天降りの先導を終えた後、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まった。
倭姫命世記によれば、その子孫の太田命は天照大神を祀る地として倭姫命に五十鈴川川上の地を献上した。
太田命の子孫は宇治土公(
うじのつちぎみ)と称し、神宮に玉串大内人として代々奉職したが、その宇治土公が
邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦を祀っていた。明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、
屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社である。

 猿田彦神がニニギの先導をしたということから、交通安全・方位除けの神社として信仰され、全国2,000以上
に及ぶ。


「金毘羅神社」

 金毘羅神社は、香川県仲多度郡琴平町金刀比羅宮を総本社とし、その祭神である大物主神を祀る神社
である。日本全国に存在する。
金刀比羅宮は、元はその鎮座する象頭山の神を祀るものであった。古くから
象頭山は
瀬戸内海の航行の目印とされてきたことから、象頭山の神は航海安全の神として信仰されるように
なった。中世になると、航海安全だけでなく、
祈雨の神として農民からも信仰された。


「大物主尊」

  大物主尊の神名は天照大神。


「素鵞鳴命」

 出雲大社の祭神は大国主命であるが、寛文6年(1666)毛利綱広が寄進した銅製の鳥居に刻まれた銘文
には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」とあり、この当時には祭神が「素鵞鳴命(尊)」とされていたとみられる。


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金毘羅神社


(由来)

  この神社は慶長年間(15961616)に香川県の金刀比羅神宮から勧請されたようである。

 

    (90段ある急な石段)                       (拝殿)      

 

    (鳥居にかかっている神社名)         (何の神様が祭祀されているのか)

(神様について)

「金毘羅様」

 金毘羅寓の社殿が建つ象図山は古くから瀬戸内海を航海する船の目印だった。海に生きる人々はこの
山に神霊の存在を感じ、海上の安全を願って熱く信仰した。それがのちに、金毘羅信仰となって全国に広
がる。

 金毘羅大権現は皇室に崇敬されることにより、群を抜いて霊威を獲得する。その有力な神霊が全国各地
の日和山(目印になった山をこう呼ぶ)に勧請され金毘羅神社とか琴平神社と呼ばれている。





素鵞神社(生目神社)


(由来)

 言い伝えによると、平安時代の終わりに平家にいた侍大将の平景清(たいらのかげきよ)は悪七兵衛
(あくしちびょうえ)
と呼ばれる強い侍でした。しかし、屋島の合戦で敗れ日向(宮崎県)に逃れる。源氏の繁栄を
見るのが嫌でついに自分の目をくりぬき、岩に打ち付けて盲目となりました。その後も岩についた目はギラ
ギラと輝き、人々は恐れおののきました。ところが不思議なことに、目を患った人が拝むと目が治りました。
それ以来その場所は生目神社として祀られました。そのことを聞いた窪野村の庄屋さんは日向に赴き、
御神体を勧請して関谷の地に祀ったのが生目神社の始まりだそうです。

毎年4月15日がお祭り日。戦後(1945)しばらくまでは道路の両側に露天がたち並び、上浮穴郡や松山
市内からも多くの参拝客があった。

             

        (拝殿)                            (神殿)

     

  (目に関係のある祈願など)                  (祈願成就を願って)

(神様について)

  「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「奇稲田姫(くしなだひめ)」を勧請して素鵞神社として祭祀し、永禄12年(1569
から牛頭天皇宮と呼ばれ、明治になって再度素鵞神社に戻り、明治42年関谷の地から現在の場所へ移転。


「素戔嗚尊」 

素戔嗚尊は高天原で起こした騒動の罰として、髪の毛も髭も切り取られ、手足の爪まで抜き取られて
地上界へ落とされました。あまりの惨めな姿に食べ物を与えようとする者すらなかったのですが、素戔嗚尊
は歩いていくうちに「大気津比売神(
オオゲツヒメノカミ)」と出会い、たいそうご馳走になります。ところがそのご馳走
が大気津比売神の口から吐かれた物であることを知ると、素戔嗚尊は「汚い」と大気津比売神を斬り殺して
しまうのです。倒れた大気津比売神を見て、本来なら食べ物をくれたお礼をしなくてはならないのに、短気を
起こして大気津比売神を斬り殺してしまったことを素戔嗚尊はひどく後悔します。

涙を流して後悔している素戔嗚尊の前で不思議なことが起こります。なんと大気津比売神の目から青い草
が生え、見る見るうちに穂が出て黄色くなり稲となり、耳からは粟が、鼻からはあずきが、お腹からは麦、足
からは大豆、そして頭からは蚕が生まれ出したのです。そして大気津比売神が何事もなかったかのように
生き返り、素戔嗚尊に新しい稲穂の米を食べるように勧めると、素戔嗚尊に髪が生え、爪が元に戻ってくる
のでした。そして稲穂を食べたことで今まで粗暴だった素戔嗚尊に優しい心と知恵までが備わります。


「奇稲田姫」

 高天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオは、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われているアシナ
ヅチ・テナヅチの夫婦に出会い、クシナダヒメを妻として貰い受けることでヤマタノオロチの退治を請け負った。
ヤマタノオロチを退治した後、スサノオはクシナダヒメと共に住む場所を探し、
須賀の地に宮殿を建てた。
また、スサノオが追放されたのは日の国の外である(いわゆる朝鮮半島)との説がある。





春日神社


(由来) 

 大昔、従五位下藤原朝臣伊勢臣大津という人が延暦時代(782807)、一族を引き連れて西野に来た時に
神社を作ったという。

 延元(13361340)のころ、郷田筑後守が山城国八坂に鎮守していた祇園社を勧請し、牛頭天皇宮と称して
いたが、明治になって素鵞神社に改称。

 勧請については応永乙未(1415)という説もある。

  

         (拝殿)                      (分祀名未確認)

(神様について)

 素鵞鳴命(すさのおのみこと)が祭祀されている。


「素鵞鳴命」

 「勝山神社」の欄に著述。

 春日神社の本元である春日大社の中心となる祭神は天児屋根命(あまのこやねのみこと)という。

天照大神が天岩戸に隠れたとき、天児屋根命は岩戸の前で太祝詞(ふとのりと)を唱えたと伝えられる。
これにより、天児屋根命は神職が神事に用いる祝詞の神とされた。古代人は、よい言葉は幸運を呼ぶ
力を持っているとする言霊信仰をもっていた。春日神社の祭神は祝詞を通してよい言霊を与えてくれる
ものとされていた。

 なお、春日大社には天児屋根命、武甕槌神、経津主神、比売神の四柱が祀られている。







諏訪神社


(由来)

 養老5年辛亜茜(721)8月、当時の伊予国国主であった越智玉純(おちのたまずみ)が信州諏訪神社から勧請し
たものを荏原郷に鎮守の守として地域の安全を願った。

延久5年(1073)源頼義が水田1町歩を免租地として寄進したという伝説がある。

弘安4年(1281)蒙古退治の祈願をした河野対馬守通有が凱旋した時、感謝の意を込めて領田を寄進した。
大永4年(1524)2月、荏原地区を領有していた平岡遠江守通景が社殿を修復。

天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国征伐の時兵火にあって拝殿・正殿ともに焼失。同18年(1590)に
再建。慶長5年(1600)9月、河野家の武士だった平岡、得能、錦織、白潟氏などが河野家再興の関ヶ原の
戦いを好機とし兵や郷民を募って諏訪神社に立てこもったが敵の来襲により再び神社を焼失。

翌年(1601)9月に再建した。これまで地頭や農民の尊崇が厚く、明治9年(1876)2月には村社になった。
明治40年(1907)11月27日、愛媛県告示第638号、明治39年(1906)勅令第96号により神饌幣帛料
供進(
しんせんへいはくりょうきょうしん=郷社村社対象明治から終戦に至るまで勅令に基づき県令をもって県知事から、祈年祭
新嘗祭例祭神饌幣帛料を供進された神社だが、昭和21年勅令第22号により、本令は昭和21116日をもって廃止された)。

  

            (拝殿)                      (素鵞神社)      

  

     (確認してない分祀神社)

(神様について)

健御名方命たけみなかたのかみ)」

 日本神話に登場する。『古事記』の葦原中国平定の段において、大国主の子として登場する。

「国譲り」のときに天照大神の「地上の国の統治権を譲りなさい」という要求に対して最後まで頑固に抵抗した。

 健御名方命は千人がかりで動かす大岩を手先で軽々と持ち上げるほどの強力の持ち主だったという。

 古くから狩猟神として信仰され、武威にすぐれた神、つまり軍神としての信仰があり、鎌倉時代には武家社会
で重視された。


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大宮八幡神社


(由来)

 昔、この地に大日要貴尊神(おほひるめのむちみことのかみ=天照大神)と大日姫神(おおひるめのかみ)を奉納して
神明宮と称していた。その後崇峻天皇2年(589)の時、小千益躬が筑紫(福岡県)の国から胸肩(宗像)
大神を勧請して場所を北にずらし、神野大宮と称し、8町歩の神地を賜った。

 貞観元年(859)宇佐宮を合祭して大宮八幡宮となる。部門の尊崇も厚く社殿の造営、宝物や社領の寄進
も多く、称光天皇の花押や書状、また西南将軍宮満良親王が奉納された御剣もあると記録に散見される
そうである。

 慶長5年(1600)9月、諏訪神社と時を同じくして兵火に会い、社殿や宝物すべて焼失。楼門が現存する。
なお、御更衣神事は元正天皇在任時の養老5年(7218月、小千玉純が詔を奉じて安芸(広島県)厳島神社
の神輿を当社に奉迎し、神衣をいただいたことに起因するといわれている。

従って今も毎年禁裏御所から御神衣を賜っていた。中世武家支配の時代になって御神衣下賜はなくなる。

  

       (仁王門)                        (拝殿)

              

         (お百度石)           (市指定記念樹木で樹齢は300年以上)

   

(神様について)

「応神天皇」「神宮皇后」「仲哀天皇」「武内大臣(武内宿禰)」「豊玉姫命(とよたまひめのみこと)」「田心姫命
たこりひめのみこと)」「湍津姫命(たぎつひめのみこと)」「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」。

境内には素鵞鳴命を祀る「素鵞神社」がある。


「応神天皇」

  応神天皇(おうじんてんのう)は仲哀天皇の第四子。生母は神功皇后であり、母の胎内にあって新羅へと
往還したが、帰国直後に生まれた(仲哀天皇9年。庚辰。西暦320年)。父の仲哀天皇の亡くなった年の
冬に誕生。

  応神天皇の名は「ホムダワケ」(『日本書紀』では誉田別、『古事記』では品陀和気)と表記されている。


「仲哀天皇」

 14代天皇の仲哀天皇は111日に即位したとされています。仲哀天皇は「ヤマトタケル」と呼ばれ
た小碓皇子の子供。仲哀天皇の皇后が、有名な神功皇后。

「武内大臣」

 正式な名前は「武内宿禰」。伝説では、実に360歳という長寿を誇る怪物的な存在である。それにちなんで
延命長寿の神さまとして知られている。また、不思議な霊能力を発揮する武運長久、厄除けの神さまでもある。
 「古事記」には、景行天皇に始まって成務、
仲哀応神、仁徳まで五代の天皇に244年間に渡って仕えたと
記されている。その間にいろいろな功績を残したとされているが、とくに有名なのは、
神功皇后の新羅遠征の
事業を補佐したことだ。そのほかには、景行天皇のときの蝦夷地視察、
応神天皇誕生後の籠坂、忍熊王子
の叛乱討伐などといった功績が記紀に記されている。

 

「豊玉姫命」

 豊玉姫命という神名は、姿かたちの見目麗しい女性を意味する。海神の娘である豊玉姫命は、海神(ワタツミ)
の宮にやってきた
山幸彦(火遠理命)と結婚して子供をもうけ、夫に富と地上の王として君臨する資格を授ける。
聖母神であると同時に、福を招き、出世を約束する女神である。


「田心姫命」

日本神話に登場するで、宗像三女神の一柱である。古事記では多紀理毘売命日本書紀では田心姫
(タゴリヒメ)・田霧姫と表記される。タキリビメを単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の
宗像神社厳島神社などで、また、アマテラスとスサノオの誓約で生まれた五男三女神とともに各地の八王子
神社
などで祀られる。


「湍津姫命」

 アマテラスがスサノオの持つ剣を譲り受けて宗像三女神を生み、スサノオの物実から生まれたのでスサノオ
の子であると宣言された。タギツヒメを単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の
宗像神社
厳島神社など。


「市杵島姫命」

アマテラススサノオ天真名井で行った誓約アマテラスとスサノオの誓約)の際に、スサノオの剣から
生まれた
五男三女神(うち、三女神を宗像三女神という)の一柱である。古事記では2番目に生まれた神で、
別名が狭依毘売命(さよりびめのみこと)であり、
宗像大社福岡県宗像市)の中津宮に祀られているとして
いる。日本書紀本文では3番目に、第二の一書では最初に生まれたとしており、第三の一書では最初に生ま
れた瀛津嶋姫(おきつしまびめ)の別名が市杵嶋姫であるとしている。現在宗像大社では、辺津宮の祭神とし
ている。


「武内大臣(武内宿禰)」

 12代景行天皇から16代仁徳天皇にいたる5代の大王に224年間仕えたといわれる伝説上の人物。彼は最初
に大臣(大王に次ぐ地位)になった人で、葛城、蘇我氏など有力豪族がが大臣になるとすべて「武内大臣(武内
宿禰)」の子孫であるという系譜を作成した。

 「古事記」の中では「武内大臣(武内宿禰)」は神に近い霊力を持つ優れた大王の補佐役として登場する。
霊媒として八幡神になった神宮皇后を助けるお伴の神としての「武内大臣(武内宿禰)」の役割が考えられた。
その結果、高良玉垂神
(こうらたまだれのかみ)の名前を与えて祀る高良大社(久留米市)は、祭神を八幡宮の第1
の随神としている。

 「武内大臣(武内宿禰)」は延命長寿の神とされるが、立身出世や子育てのご利益もあるといわれている。






小村稲荷神社


(由来)

 白潟弥兵衛という人が京都伏見神社から勧請したのが始まりと言われている。それ以上に詳しいことは
不明。

    

           (拝殿・神殿)                      (石碑)

(神様について)

「玉依比売命」「帯中比古天皇」「品陀和気天皇」「息長帯比売命」が祭神となっている。


「玉依比売命」

 正八幡神社の項に記述。


「帯中比古天皇」

 仲哀天皇のこと。大宮八幡神社の項に記述。


「品陀和気天皇」

 応神天皇のこと。大宮八幡神社の項に記述。


「息長帯比売命」

 神宮皇后のこと。『紀』では気長足姫尊おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命おきながたらしひめ
のみこと
)・大帯比売命おおたらしひめのみこと)と記されている。





竜神社


(由来)

 文武天皇元年(6988月、小千玉輿が重信川の洲を開拓して耕地に変えるとき、水源を掘り当てたので
そこに竜神さんを祀った。竜神神としてその後一切涸れることがないという。

 貞観13年(9716月に南海道大干ばつ、天保10年(1839)及び安政3年(1856)のときにも水は涸れ
なかった。

 文明19年(1471)浮穴城主により社殿再建。また同年、河野通矩により相模社再建。

  

       (拝殿・神殿)                 (由来にもある涸れない泉)

(神様について)

「瓊々杵命(ににぎのみこと)」「伊弉冊命(いざなぎのみこと」「宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)」を祭神としている。


「瓊々杵命」

 天照大神は日本の国を治めさせるため、自分の子である天之忍穂命(あめのおしほみみのかみ)を高天原
(たかまがはら。天照大神が支配する天上の国)から地上に降そうとするが、そのとき天之忍穂命に子が産ま
れたので、代わりに孫の瓊々杵命(
ににぎのみこと)を三種の神器である八尺(やさか)の勾玉・鏡・草なぎの剣を持た
せ降臨させることになった。天児屋命(
あめのこやねのみこと)や手力男神(たぢからをのかみ)などの神々が瓊々
杵命に付き従った。
 瓊々杵命一行が天から降りようとしているとき、地に通じる要所で輝きを放つ神の姿があった。天鈿女神
(あめのうずめのかみ)が近づいて「誰か」と問うと、国つ神(「天つ神」に対して天孫降臨以前から国土に土着
していた神)の猿田彦神
(さるだびこのかみ)。後に天鈿女神と結婚)で、先導役として仕えたいという。一行はこれを
認め、猿田彦神を先頭にして天空に幾重にもたなびく雲をかきわけ、天の浮橋から筑紫・日向の高千穂の霊峰
に降り立った。


「伊弉冊命」

 イザナギといえば『記・紀』神話では愛妻イザナミとともに大八島国(『紀』では大八州国)をはじめ島々を生み
出しさらに多くの神々をつくりだしたものの、死んでしまって黄泉の国に隠れたイザナミを追って黄泉の国へ行っ
たものの、変わり果てたイザナミの容姿に驚き逃げ帰りけがれた身を筑紫の瀬戸で清め数々の神を生み出し、
最後にいわゆる三貴神、アマテル・ツキヨミ・スサノオを誕生させ淡海(近江)の多賀(『紀』では淡路)に鎮座する
あの国生みの神である。


「宇迦之魂命」

 宇迦之御魂神、別称の稲荷神のほうが馴染みがある。今日では一般に商工業方面に霊威を発揮する神とし
て信仰されている。しかし、名前に「稲」とつくように、もともとは五穀と養蚕を司る穀物神、農耕神で、稲の生産、
豊穣を守護する神として崇められた。その稲荷神を祀る稲荷社の祭神とされるのが宇迦之御魂神である。
 食物を司る御饌都(
みけつ)神ともいわれる本来の性格から、宇迦之御魂神はしばしば伊勢神宮の外宮に鎮座
する豊穣の女神
豊受大神と同一神格と見られたりする。日本の神さまというのは、神話などでは違った名前で
出てきても、その基本的な性格がほとんど類似することから、同一神であるということが多いらしい。ただし、伏見
稲荷大社の主祭神の宇迦之御魂神と伊勢神宮の
豊受大神とははっきりと別な神である。


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中野素鵞神社


(由来)

 延元(1336-1340)の頃、郷田筑後守が山城国(京都府)八坂に鎮座していた祇園社を勧請して、牛頭天満宮
と称していたが、明治になって素鵞神社と呼ぶようになった。

 湯築城の河野氏が秀吉の軍門に下って以降浪人となった武士が帰農して中野の開拓にあたった。この人たち
は東温市の野田地区の人が多数であったため、彼らの氏神は野田の三島神社であった。そのため紛争もあり、
明治の初め中野一村に限って祭りの催行を県令あてに出し、許可されている。

   

         (拝殿・神殿)                   (素晴らしい彫刻)

(神様について)

祀られているのは「素鵞鳴命」。


「素鵞鳴命」については春日神社の項に記述。







徳川神社


(由来)

崇峻天皇(587-592)の御代、小千益躬(おちのますみ)=伊予の豪族)が大三島から大山津見神(大山積神)を
勧請して徳川宮と称するようになる。和銅2年(706)三島浦戸から諸山積大明神を勧請して、拝志徳川大明神
となる。

久谷の地を支配していた土岐一族の産土神として熱く尊崇され神殿の再建を受けている。また、元寇の役で
功をおさめた河野通有も神殿を寄付している。

 この地は大昔徳川と呼ばれていたため、徳川神社として今にいたる。

  

        (拝殿)                            (神殿)  
  

  (左から菅原道真命、素鵞神社、              (拝殿内部)

若宮神社、天満神社)

   

       (本来の鳥居)                      (90段ある石坂)


(神様について)

「面足命(おもだるのみこと)」「惶根命(かしこねのみこと)」「大山積命(おおやまづみのみこと)」「雷神」「高麗神」が
祭祀されている。


「面足命」 

神世七代の第6代の神で、オモダルが男神、アヤカシコネが女神である。オモダルは「大地の表面(オモ=
面)が完成した(タル=足る)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの(『
古事記伝』に
よる)である。

中世には、神仏習合により、神世七代の六代目であることから、仏教における天界の最高位である第六
天魔王
の垂迹であるとされ、特に修験道で信奉された。


「惶根命」

 神代七代の神のうちの一柱。いよいよ大地が成り立って、それを「あやにかしこし」と美称したところから名付け
られた女神。面足尊と対になる神で、大地・身体、すべてを完全に保全する霊力を備えられる神である。


「大山積命」

 大山祇神は日本全国の山を管理する総責任者です。その娘に、富士山の神の木花咲耶姫このはなさくやひめ
神とその対の存在であり同じ神の両面ともいわれる木花知流比売(
このはなちるひめ)神、浅間山の神の岩長姫
いわながひめ)神、稲荷神や大年神の母である神大市比売かみおおいちひめ)神、などがおられます。

大山津見神、大山積神などとも書きます。伊邪那岐神・伊邪那美神が神産みをした時の子で、奥様の野の
神・鹿屋野比売神(
かやぬひめのかみ)もその時いっしょに生まれました。(百済から渡って来られたという説もある)。
 大山祇神は全国約1萬社といわれる山祇神社にお祭りされていますが、その中心は、瀬戸内海の大三島に
御鎮座する大山祇神社です。


「雷神」

雷神らいじん)は、日本の民間信仰や神道におけるの神である。「雷様(かみなりさま)」「雷電様(らいでんさま)」
「鳴神(
なるかみ)」「雷公(らいこう)」とも呼ばれる。

菅原道真は死して天神(雷の神)になったと伝えられる。民間伝承では惧れと親しみをこめて雷神を「雷さま」と
呼ぶことが多い。雷さまは落ちては人の
ヘソをとると言い伝えられている。日本の子どもは夏に腹を出している
と「かみなりさまがへそを取りにくるよ」と周りの大人から脅かされる。


「高麗神」

 主祭神はかつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗国からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は他に
「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)。

若光が渡来した年代については不確かだが『日本書紀』天智天皇称制5年(666)年10月高句麗から派遣さ
れた使節の中に「二位玄武若光」の名がある。『続日本紀』文武天皇大宝3年(
703)年に御祭神が「従五位下
高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考え
ると、『日本書紀』にある「玄武若光」と高麗王若光は同一人物と思われる。

 若光は元正天皇霊亀二年(716)武蔵国内に新設された高麗郡の首長として当地に赴任する。当時の高麗郡
は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)
下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに開拓に当たった。若光が当地で没した後、
高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀られるようになった。


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三島神社


(由来)

  往古、大山積神を祀って鎮護としたが、和銅5年(712823日、伊予の大領であった越智玉輿(おちたまこし
が大三島神社から高麗神、雷神、摂社十六皇子(
本社の境内にあるものを境内摂社というが、16皇子は不明)を勧請合祀して、
3町歩を寄進して神領とした。

 河野通有が蒙古退散祈願をして功績があったので、神殿の補修と神領を寄付。

 天文3年(1534)荏原城主平岡大和守通房が具足と銘刀を寄進。また松山城主であった松平(久松)家も尊崇
の念が厚かったようである。

  

          (拝殿)                      (神社由来の石碑)

     

(拝殿内にある絵馬)              (お百度石)

(神様について)


「高麗神」

 徳川神社の欄に記述。


「雷神」

 徳川神社の欄に記述。


「摂社十六皇子」

 上の由来の欄に書いたように確かなことがわからない。

参考文献

久谷村史  久谷村史編集委員会  昭和42年

ふるさと荏原  松山市立荏原小学校  昭和62年

ふるさと坂本  坂本公民館   平成4年

知っておきたい日本の神様  青木誠一郎  角川学芸出版  平成20年

日本の神様がよくわかる本  戸部民雄  PHP文庫  2008年

ネット辞典Wikipedia






神輿と獅子舞

「神輿」

ネットの情報によれば、神輿は、御輿とも書き「みこし」と読むが、音読みで「しんよ」という場合もある。
御(み)とは、神・天皇・宮廷などに属するものであることを表しており、神輿、御輿とも神幸のときに、
神さま(御神体・御霊代)が乗るとされる輿をいう。
 また、戦国時代には神輿を「かみ」と呼び、神輿に神体を移すと御神輿「おかみ」と呼んだとする説もある。

 神社の神輿は、祭礼の神さま(御神体・御霊代)が本社から御旅所へ渡御する神幸祭に使われる。渡御で
神輿は、氏子に担がれて町内を練り歩くが、それは神さまに町内を見ていただくためといわれている。渡御中
に神輿を上下左右に振り動かして荒々しく扱うことがあるが、これは「神輿振り」といわれ、神輿に御座されて
いる神さまの「魂振り」(たまふり)で、これにより神さまの霊威を高め、豊作や豊漁、疫病が退散するとされて
いる。また、海などに神輿を担ぎ入れることもあるが、これは一種の禊(みそぎ)神事と考えられている。
 町内御輿は、神社で神さまの分霊を移し氏子が各町内を隈なく渡御することにより、町内を神さまに見て
頂きご加護を頂くためといわれている。

 神輿の原型は、白鳳時代に始まったとされ、現在のような神輿になったのは戦国時代末期に京から技術
が伝えられた江戸で完成したとの説もある。
 神輿には、四角形・六角形・八角形などがあり、木製に黒や赤色の漆塗り、彫刻や金具、飾り綱、屋根の
上には鳳凰や宝珠・葱花を飾り、台輪を貫く2本の花棒を轅(ながえ、平行に出した2本の棒)とし、舁く(かく、
懸くと同源で物を二人以上で肩にかけて運ぶこと)のが一般的である。
 現存する最古の神輿は、鎌倉時代初期に造られた誉田八幡宮(大阪府)所蔵の神輿といわれている。

「獅子舞」

 日本での獅子舞の始まりは、16世紀初め、伊勢の国で飢饉〔ききん〕、疫病を追い払うために獅子頭を
作り、正月に獅子舞を舞わせたのが始まりといわれています。その後、17世紀に伊勢より江戸へ上り、悪魔
を払い、世を祝う縁起ものとして江戸に定着し、祝い事や祭り事で獅子舞いが行われるようになった。獅子舞
が日本の各地に急速に広まったのは、室町時代から江戸時代の初期のころに、「江戸大神楽師〔えどだい
かぐらし〕」、「伊勢大神楽師〔いせだいかぐらし〕」と呼ばれる団体が全国を獅子舞を踊りながらまわり、悪魔
払いをしたのがきっかけであると言われている。

獅子舞の起源は、インド地方とされている。 インド地方の遊牧民や農耕民の信仰で神として崇められて
いたライオンを偶像化させた獅子舞が生まれ、宗教行事の一つになったことが始まりと考えられているようだ。
その後、チベット、中国、東南アジアへ伝搬。
 日本へは、中国、中国本土、朝鮮半島経由、東南アジア・台湾・琉球経由の三つのルートに分かれて伝え
れられた。その後、それぞれの地域の人々によって独自の舞い方が形成され、宗教的行事や地域のお祭り
に欠かせない郷土芸能として定着した。

日本の獅子舞には、大きく分けて伎楽〔ぎがく〕系と風流〔ふうりゅう〕系の二つの系統がある。

伎楽系
獅子の頭につけた胴幕の中に二人以上の人が入って舞う、「二人立ち獅子舞」が多く、これは大陸から
伎楽の一つとして伝来したもので伎楽系の獅子舞と言われています。本州中部以西の西南日本で多く見ら
れます。久谷地区の獅子舞はこれに属する。

風流系
関東・東北地方などで行われている鹿舞〔ししおどり〕と呼ばれるもので、鹿〔しし〕の頭をかぶり胸に太鼓を
付けた一人立ちの舞いで、太鼓を打ちながら踊るものです。

以下に久谷地区の神輿と獅子舞を紹介したい。写真は「久谷夢工房」田中睛さんに提供をいただいた。

「葛掛神社」

  



「勝山神社」
   獅子舞はなし


「金毘羅神社」

   



「正八幡神社」

   



「生目神社」

  




「諏訪神社」

  




「春日神社」

  獅子舞はなし




「大宮八幡神社」

  



「小村稲荷神社」

         獅子舞はなし



「竜神社」

   



「素鵞神社」

  獅子舞は未掲載



「徳川神社」

      




「三島神社」

    





「鉢合わせ」
 「鉢合わせ」という言葉は、偶然ばったり出会ったときに使う言葉で、思いがけず出遭うことである。
この「鉢」とは、植木鉢の鉢ではない。「鉢」とは頭のことである。
 もともと、僧侶が托鉢(たくはい)に持っていく丸い器は、仏教用語で「鉢多羅(パートラ)」といい、日本に
伝わった際、単に「鉢」と呼ぶようになった。さらに、丸い器である「鉢」の形が、人間の頭に似ていることから、
人間の頭や頭蓋骨の部分のことも鉢と呼ぶようになった。
頭と頭が合わさるということから、「鉢合わせ」である。ちなみに、運動会や祭りで頭に締める「鉢巻き
(はちまき)
」も、頭を鉢に例えて派生した言葉である。

 神輿の鉢合わせも偶然ばったりとなり地区の神輿と出会って何らかの拍子で鉢合わせをしたのがその
由来だろうか。

 中野町と津吉町の鉢合わせ

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