久谷の歴史(簡略編)
久谷中学校は毎年14歳になった少年少女のお祝いとして「少年式」を行っている。この行事を記念して、
久谷地区社会協議会が「久谷のお宝発見」と題するCDを生徒全員に配布している。
19年度から生徒が巣立った「坂本小学校」「荏原小学校」及び在籍している「久谷中学校」を紹介する
とともに「久谷の歴史」を加えることになった。
生徒が読みやすいように、地区の歴史をごく簡単に紹介した内容をここに掲載している。
地名の由来
大宝律令(701)により伊予(愛媛県)に14郡が設置されました。それは、宇摩・新居・周敷・桑村・越智・
野間・風早・和気・温泉・久米・浮穴・伊予・喜多・宇和で、久谷は浮穴郡に属します。
14郡には72郷が設けられ、浮穴郡は「井門」「拝志」「荏原」「出部(いずべ)」の四郷で形成されます。
大宝律令(西暦700年代)のころ、久谷地区には次のような地名が存在していました。
この頃の中心地は、東方の岡本にあり当時は「岡本の宮」と言われていました。岡本とは、岡のふもと
という意味。
なお、当時使われていた字義は次の通り。このことを頭に入れて、地名を見ると意味がよくわかります。
原=平らで集落に近い原野。(荏原、河原)
野=山に近い傾斜地で集落から少し離れた場所。畠の意味もある。(上野、中野、西野、窪野)
岡=平地より少し小高い所。(岡本)
塚=小さい丘。(八塚)
久谷とは、長い谷の意味。谷ももとは深い渓谷ではなく、山と山との間を指します。
荏原とは「荏胡麻(えごま)」の採れる場所があることからついた名前です。荏胡麻は食用や灯油に
使われました。今の恵原町の昔の名前です。
河原はもちろん重信川沿いの土地です。
上野は岡本から見てやや高い場所。中野は川の流れが緩やかになった辺りには、川原や中州もでき
ます。長い間には、そこに集落ができ、地名として残りました。西野は、岡本から見て西の方角にある
場所。窪野は、谷間にあるくぼんだ場所。東方は、岡本の東方にあることから。津吉の「津」は港を
意味します、昔は重信川を船が上り下りして、物資や人の流通の大切な道筋でもありました。津吉は
その港を中心にして開けた土地だということがわかります。重信川に舟を浮かべていたなんて、今では
信じられないことです。浄瑠璃は46番札所のお寺の名前から。
荏原町村は享保17年(1732)恵原町村に改名を藩に申し出て許可された。
恵原は古くから荏原という漢字が当てられたり、室町時代には「江原」が使われたりした。江戸時代には「荏原町村」
が正式な名前。享保20年(1735)恵原町村に改名。村の前になぜ「町」がついたかといえば、かなり以前から恵原
には土佐街道があり、商店、宿屋、石工などで賑わいをみせ、久谷地区の中心地となっていた。「町」には「商家の
並んだ賑やかな所(広辞苑)」という意味がある。
明治5年のときは荏原町村、「郡区町村編成法」により7か村は「荏原村」となりました。
地名のもとになった「荏胡麻(えごま)」とはどんなものか見てみよう。
荏胡麻はこんな植物です。 | よく見ると、実ができています。 |
この時代には西野を中心とした丘陵地帯に人が居住していたようです。
縄文式土器の破片や石器が見つかっています。水がきれいで見晴らしがよく、
木の実など山の幸もあって住むのに条件が良かったのでしょう。
歴史の本によれば、日本列島に住んでいた人口はほぼ20万人。縄文後期になると、日本全体が寒冷化
したため、専門家によれば人口も約8万人となり、西日本はほぼゼロだったそうです。
となると、久谷地区にはだれもいなかったということです。
乳幼児を含めての平均年齢は20歳に達してなかったそうです。
左図は縄文時代の模型住居。竪穴式住居と呼ばれています。 |
下の絵は縄文時代の生
食物として、
鯉・ふな・うなぎ・あゆ・ごり・ やつめうなぎ・はや・かわえび・かわがに・ うぐい・ぼら・さけ・ます・やまめ・いわな・ 沢ガニ・川ガニ,などの魚類・甲殻類しじみ・ たにし,などの貝類など。「肉類」では、 いのしし・鹿・たぬき・熊・きじ・鴨・うずら・ すずめ・つぐみ,などの獣や野鳥 | |
秋のころの服装。 | |
縄文土器の製作想像図。 |
弥生時代 (紀元前10世紀から3世紀ころまで)
この頃のものとして、「松ヶ谷遺跡」が西野町の丘陵地帯にあります。
これは弥生時代のものと松山市に認定されていて、遺物も現存しています。
手前に見えるこんもりとした丘が「松ヶ谷 | 弥生時代の住居内復元予想図 | |
弥生時代の水田想像図 | 弥生時代の家の復元 |
古墳時代 (3世紀半ば過ぎから7世紀末までの約400年間)
古墳時代とは3世紀半ばから7世紀末までで、弥生式の古墳と異なり規模が大きくなります。
3世紀以降は各地の指導者が成長して豪族となる。そのような身分の高いものが亡くなると、
南向きの日当たりのよい場所、山や丘のふもと、平地では土を盛り上げた墓が造られました。
今も恵原町に残る「八塚古墳群」(市指定史跡)はこの時代のものと考証されています。
石室は未調査のため明確ではないが横穴式石室と推察され時代は古墳時代終末と考えられて
います。
恵原町以外にも「津吉町古墳群」、「矢谷古墳」などがあり、すべて円墳です。
上は、八塚古墳群の一つ。 |
水田耕作は弥生時代の自然環境を巧みに生かして営まれました。各地の遺跡から出土する人骨
は弥生時代に朝鮮半島や中国大陸から日本列島に渡来してきた人々が存在したことを示していま
す。こうした渡来人と縄文以来の在来の人々との混血が、現在の日本人の形質を形づくっていった
と考えられます。
水田稲作の渡来に伴い、金属器や織物など、新しい技術や文化が中国大陸や朝鮮半島からもたら
され、衣食住の生活も狩猟採集の縄文時代から変化していきます。
稲作の農耕サイクルに合わせて確立されていった新しい生活パターンは、その後の日本の農村
生活の原形になっていったと考えられます。
いずれにしても、弥生時代には主として米や雑穀を炊いて雑炊のようにして食べていたと想像できる
のです。
大陸から渡来した稲作により 生活が安定してきます。 |
このような集落を築いて いたと考えられます。 |
松山市松末5丁目の遺跡から判断して、掘建柱の平地住居の場合、梁間2・3間、桁行3間程度で
3~5軒で1単位の地区を作っていたようです。
男子の髪型 | 女子の髪型 | 想像される食事内容 |
4世紀ころから奈良時代 (300年代から794年ころまで)
4世紀後半ころ、伊予も大和朝廷に統一されて5つの国造がおかれました。彼らは地方の豪族で、その
下部組織として県主(あがたぬし)を設置。
成務天皇(130-190在位)の代に伊予(余)国が設置され、国造は現在伊予市の神崎あたりに住んでいた
と考えられます。
応神天皇(270-310在位)の代に久米(味)国造が任命され、久谷地区はその統治区域になった。後に、
久米(味)国造の子孫が苗字に「浮穴」をなのります。
浮穴郡の成立
大化の改新(656)の翌年、政治の大綱として全国に行政区画(国・郡・里)が設けられた。
そして、それぞれに国司・郡司・里長が任命され、687年に田中法磨が初めて伊予の国司として赴任。
当時、伊予には宇摩、新居、周敷、桑村、越智、野間、風早、和気、温泉、久米、浮穴、伊予、喜多、
宇和の14郡がありました。
浮穴については、続日本後紀承和元年の条に「伊予国人浮穴千継賜姓春江宿禰千継之先大久米命也」
とあるので浮穴氏は久米と同族であることは間違いなく、郡司として統治したようです。
郡の下部組織である「里」は50戸をもって一里とし、農民から里長が選ばれた。
「里」は奈良時代になって「郷」と改称される。浮穴郡には「井門」「拝志」「荏原」「出部(いずべ)」の四郷。
この荏原郷は今の久谷地区全域にわたる。出部とは砥部、広田、中山、双海地域を指します。
天平9年(737)に出された「律書残篇」によれば、伊予国は13郡68郷191里(村)とあるから1郷は50戸なの
で単純に計算すると50x68=3.400、すなわち当時の伊予の人口は約10万となります。
奈良時代の瓦
温市民俗資料館や松山民族資料館に残る写真には素焼きに近い瓦が保存されている。
下の写真は東温市の物。
左の写真は「複弁四葉蓮華文軒丸瓦」 (奈良時代) |
奈良時代の生活
奈良時代の金持ちの住居 | 当時の食事 | 夜はこもをかぶって寝ます |
「荘園」(奈良・平安時代)から「織豊時代」(桃山時代)
(800年から450年くらい前まで)
初期の荘園はふつう墾田地系の荘園と呼ばれる。
法隆寺が所有する天平19年(747)には全国に46所の荘園があり、そのうちの1つに浮穴郡が書か
れています。場所と規模は不明ですが、大宮八幡神社跡と上野の丘陵地から出土した瓦窯跡の古い
瓦の模様が法隆寺出土のものと同じであることから、法隆寺の荘園たる浮穴郡は荏原郷(現在の
久谷地域)でほぼ間違いないようです。
平安時代の裕福な市民 | 平安時代の貴族の子女 |
平安時代にでた食べ物として今に残るのは、「七草がゆ」「いのこもち」「ちまき」があります。
鎌倉時代から室町時代 (1192年から1573年頃まで)
「新張城」(城館)について
恵原町小字新張に存在する通称「新張城」と津吉にある「尉の城」は共に土岐氏の本陣城と出城
(居館)です。
本陣(「新張さん」とも言われている)は1230年ころ、今の岐阜県から土岐という人が鎌倉幕府から
地頭に命ぜられて赴任しました。多分、その頃新張(当時は、縫針と言っていたようです)に居館を構え、
上浮穴郡からの襲来に備えて「尉の城」を築いたようです。
築城当時の東堀はいまだに 面影をとどめている |
1300年代に入って、台頭してきた平岡氏と競合しながらもやがては勢力が衰え、平岡氏の家来として
生き残ります。いつごろこの居館跡が放棄されたのかわかりません。
一遍上人と窪寺(1239年-1289年)
いよ(愛媛県)の名家である河野道広の第2子として生まれた。比叡山で天台宗を勉強した後、福岡の
太宰府、長野県の善光寺で修業。
1271年秋、伊予に戻り久谷の窪寺に庵を結んで3年間信仰に徹しました。
左の図は、「一遍上人絵巻(国宝)」 |
1275年、37歳のときに和歌山県にある熊野権現にこもって修業した後、新しい宗派として「時宗」を
おこします。この宗派を知ってもらうために九州、四国、北陸、関東、さらには奥州まで足をのばし
ました。道路状態がわるく、発達してない当時としては大変な旅です。
この間念仏札を受けた者は25,1727人に達したそうです。
1289年に兵庫県加古川市にある教信寺へ行く途中亡くなりました
左の写真は、一遍上人が庵をむすんだといわれる |
|
鎌倉時代の民家 | 鎌倉時代の武士の姿 |
女性の服装 | 当時の食事 |
一般の家 | 台 所 |
荏原城(1300年代半ばー1600年)
荏原城は平岡氏によって当時としては極めて珍しく平野部に築城されています。
久谷地区には城というよりも砦といったほうがいいのですが、坂本地区に「葛掛城」「真城」「勝岡城」
荏原地区に「尉の城」と「大友山城」の4つの山城があります。
正面の台地が「真城跡」 | 手前の2つ連なる山の右が「勝岡城跡」 |
これら5つの城はともに高知県地方の豪族が豊かななりものを目指して攻めてくる見張りをしていたと
考えられています。砦ですから、普段はせいぜい10名以内の足軽などが常駐していたことでしょう。
さて、荏原城主となった平岡氏はどこから来たのかはっきり分かっていませんが、道後平野の豪族
だったことは確かでしょう。
次第に勢力を増すにつれて近くにいる新張の土岐氏とも競合しながら、やがては土岐氏を配下に
おさめます。その強さを見せつけるためわずか700メートルしかない場所に城を築いたものと思わ
れます。
左図を参照上が荏原城跡地、 下が地頭居館跡地 |
下にきわめて古い写真があり、昭和時代初めの荏原城の面影がしのべます。
平岡氏の活躍が文献に初めて見えるのは、文亀3年(1503)のことで、平岡下総守という人が
道後湯築城の河野通宣(みちのぶ)に反旗を翻して、砥部の施梨(千里)城に立てこもったと書いて
あります。
平岡氏の子孫に房実(ふさみ)という人がいて、16世紀後半には勢力を伊予郡にも拡張し、久米郡・
浮穴郡・伊予郡にまたがる地域を治めていました。
1585年、豊臣氏の四国征伐には湯築城にたてこもって戦いましたが、負けて降伏。
慶長5年(1600)、関が原の合戦がおきると、当時の松山領主の加藤嘉明が東軍に荷担したため、
平岡直房がお家復興をめざし、一揆を起こした。直房は、平岡氏累代の居城である荏原城に
籠城、加藤軍を迎え撃ったが、一揆は鎮圧されました。その時、恵原町はほとんど焼けてしまいました。
それ以降、荏原城は廃城となり今日に至ります。
波乱な人生を送った 平岡通倚の墓は、 今も浄瑠璃寺の 境内側に祀られて います。 (左の写真) |
戦国時代かそれ | ||
室町時代の民家 | 当時の食事 |
安土桃山時代から江戸時代 (1568年から1868年まで)
大名の移り変り
平岡氏の滅亡とともに文禄4年(1595)松前町にいた加藤嘉明(よしあきら)という大名が久谷地区も
支配していたが、1600年の関ヶ原の功績により愛媛のほぼ半分に当たる20万石の大名となり、居城を
松前町から松山市に移しました。その時に今の城を築いたのです。
1627年に加藤嘉明は福島県の会津に転封になり、その後へ1635年、三重県の伊勢市から久松定行
が松山15万石の大名として移り住み、明治まで続きます。
元禄検地
元禄13年(1700)に松山を含めて全国的に検地が行われました。その時の記録によれば、津吉村(788石)
小村(26石) 西野村(216石) 浄瑠璃寺村(494石) 久谷村(580石) 中野村(210石) 東方村(1,118石)
上野村(689石) 恵原町村(725石) 窪野村(301石)となっています。
ここでいう「石」は一般的には1石=150kgです。
享保の大飢饉
江戸時代の3大飢饉(享保、天明、天保)のうち松山地方では特に享保の飢饉が激烈で未曽有の災害を
もたらしました。
享保2年(1717)頃から降り始めた雨は、麦の成熟・収穫期とも重なって、収穫は腐敗のため皆無となり
ました。長雨による稲の病虫害、特にウンカの異常発生で稲は枯死したためコメの収穫もほとんどゼロと
なっています。恵原町村の場合は、常光寺が明治14年の火事で焼けたために記録が焼失。
享保の大飢饉による死者数は次の通り。他の寺の記録は不明
寺名 |
心行寺 |
大連寺 |
浄瑠璃寺 |
道舊寺 |
円福寺 |
享保16年 享保17年 享保18年 享保19年 |
28 144 108 22 |
19 76 68 10 |
14 28 41 10 |
7 54 72 18 |
12 10 15 5 |
合 計 |
302 |
173 |
103 |
151 |
42 |
左の写真は恵原町の常光寺にある慰霊碑です。 |
久谷地区の主な飢饉は上以外には次の通りです。多くの人が亡くなったことでしょう。
享保2年(1717) 旱魃 享保9年(1724) 大旱魃
天明4年(1784) 旱魃 イナゴの被害による大飢饉
寛政10年(1798) 旱魃 文政6年(1823) 旱魃
天保8年(1837) 旱魃による飢饉 嘉永5年(1852) 大旱魃で稲作も畑作も枯れ死。
なお、百姓一揆は全国でも3番目に多く、松山藩はかなり厳しい徴税が行われていたことが
分かっています。そのため、藩主は老中からきついおしかりを受けています
農家の生活
江戸時代は厳しい身分制度によって支配が行われていました。久谷の場合は農村なので、庄屋
(他の庄屋を束ねる)-平庄屋―組頭ー長百姓―平百姓―水飲百姓―小作人のようになっていて、
組頭でさえ庄屋の家の正門から入れず、勝手口から入り玄関前では土下座でした。
農家の楽しみは年に数回あるお休み日。お正月、ひな祭り、節句、お盆、秋祭りぐらいでしょうか。
土曜・日曜はありません。「朝は朝星、夜は夜星」といって朝は日が出る前から、夜は一番星が
見えるころまで働いていました。
|
自衛組織としては「五人組」が存在した。村では長百姓が近隣ごとに5戸前後に編成し,各組に組頭など
と呼ばれる代表者を定め,それを庄屋の統率下に組織化しました。
これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり,藩主はこの組織を利用して治安維持・村方内争議の
内済・年貢確保・法令の伝達周知徹底などをはかりました。
江戸末期の食事風景 | 家族の食事風景 | |
農夫の姿 |
江戸末期の田植え風景 | |
江戸時代の村について
今の久谷地区は江戸時代、久谷、浄瑠璃、窪野、西野、恵原町、東方、津吉、上野、中野、小村の10か村
で構成されていました。
この地を支配していた松山藩の代官所(100石から300石程度の中級武士、3名程度が毎月交代勤務)で
庄屋を通じて村を治めていました。庄屋の下には村方三役といって、庄屋のほかに組頭・長百姓がいました。
三役にも庄屋格、三頭御礼百姓、郷筒並上下脇差御免があります。その下が平百姓、水飲百姓、小作となり
ます。当時の組織を少し詳しく述べてみます。
まず代官所ですが、松山藩には周府、桑村、越智、野間、風早、和気、温泉、伊予、浮穴、久米の10郡と
久万山、島方の2か所、合計12か所に設けられていました。代官(手当として毎年20俵)の下には手代(6石
2人扶持)が4・5名、手付(4名)、物書(3名)、遣番(4名)とよばれる下役がいました。
庄屋にも家格があって大庄屋、改庄屋格、庄屋、大庄屋格、改庄屋格帯刀、平庄屋となり、20か村以上を
束ねたのが大庄屋です。
身分差はとても厳しく、普通の百姓なら用事があって庄屋の家へ訪れても絶対正門・玄関からは入れません。
勝手口で最敬礼をして、用事を済ますぐらいです。庄屋と身分のある武士のみが正面入口から入ります。
組頭や家族は正門横の小さい門から出入りをします。
この時代は米中心です。ご存じのように松山藩はほぼ15万石。1石というのは人間が1年食べるコメの量で、
大体150kgで計算しています。15万石というのは15万人の人を養える米がとれるということですね。
江戸時代の日本のコメの収穫はほぼ3千万石近くです。久谷の村ではどれくらいのコメがとれていたので
しょうか。江戸時代の初めと終わり頃ではやや違いがある(新田開発などにより)が、おおよその収穫量を
示します。それによってどのくらいの人が住める状態だったかわかります。
村 名 |
収穫量 |
村 名 |
収穫量 | 村 名 | 収穫量 | 村 名 | 収穫量 |
荏原町村 |
730石 |
中野村 |
210石 | 東方村 | 1,110石 |
上野村 |
700石 |
西野村 |
216石 |
津吉村 |
780石 |
小村 |
53石 |
浄瑠璃寺村 |
490石 |
久谷村 |
580石 |
窪野村 |
300石 |
総石高 |
4,800石 |
蛇足
少しお米について説明しましょう。
松山藩は15万石と言われますが、この「石」というのは人間が1年食べる量を表したものです。ほぼ150kgに
あたります。昔の人はひたすらご飯(白米だけのご飯は農家なら年数回程度で、米に麦やあわやひえなど雑穀
を混ぜ合わせたものが主)を食べました。おかずはせいぜいたくあんに漬物、お汁程度でした。
さて、荏原町村の場合収穫量は730石ですが、半分から6割は藩に納めます。残りのお米や野菜を売って生活
します。江戸時代の田んぼの収穫は1haあたり大体6俵(3,600kg)。現在のコメの値段は30kgで1万円前後。
6ha持っている農家のコメの収入は1年で、127万円。半分は藩に納めるので実収入は64万円。それ以外に野菜、
俵、草鞋などの内職で10万ぐらい。月6万円程度の生活ですが、今のように品物があふれるほどない時代です
から十分生活できたでしょう。
チャンバラ映画やテレビに出てくる江戸町奉行物語に十手を腰に下げている「同心」というのがあります。
武士階級としては、最下層です。彼らの年収は30俵2人扶持(ぶち)です。1人扶持というのは、人間が1日5合
食べるものとして計算する役職手当みたいなものです。1年間で4石二斗5合(253kg)あります。
そこで計算すると、彼らの年間収入は30俵が60万円、2人扶持が約8万5千円。合計68万5千円。月5万6千円
の生活ですね。
松山藩の15万石はその半分から6割が藩の収入。またその7割が家臣にあてられます。半分として7万5千石。
その7割は22,500石。これが藩主の収入。この費用で江戸への参勤交代、道路改修、生活をしなければ
なりません。藩の収入は単純計算すると、大体11億2500万円。さて、殿様の生活はどうだったんでしょうね。
明治から昭和にかけて (1969年から1989年まで)
久万山農民騒動
明治4年(1871)文明開化の政策に反感をもったり、環境や時代の急激な変化を恐れた久万(久万高原町)
の住民たちが松山藩主だった久松定昭をそのまま留め置くように県庁に訴えました。
この運動はたちまち久万地区全体に広がり、3,000人余りの農民が明治4年8月15日には三坂峠を下り、
翌日には「井手口」に到着。さらに人数が加わるとともに鉄砲・竹槍・刀などを持参して暴徒化し、久米地方
では庄屋や組頭の家を襲撃して家財道具を破壊するなど乱暴を行いました。
8月18日、県もこの暴動を放置できないため彼らに対して攻撃を始めました。
8月19日、県は一揆を鎮圧。数日後、各村の頭取を呼びだして説諭をし、農民は庄屋の指揮に従って帰村。
その後の調べで重罪と判定された人は、牢屋に入れられ、首謀者は絞首刑となりました。
小学校の発足
明治時代の子供たち | 小学生の修学旅行 |
明治5年(1872)7月「学則の制定」により学校を設置。恵原町村には「鳳鳴小学校」、津吉に「徳明」、
中野に「謄明」、東方に「知新」、上野に「済美」があったが、位置は不明。多分、寺小屋のようなもの
だったと思われます。
大正時代の教室後ですが、このような教室は明治から 昭和の初めころまで長年にわたって使われました。 |
明治20年(1887)4月、「東方尋常小学校」を設置。大正12年(1937)に「荏原尋常小学校」と名前を
改めた。
昭和23年の3年生と荏原小校舎 | 昭和26年の卒業生と当時の校舎 |
坂本地区には、窪野簡易学校、久谷簡易学校、出口尋常小学校があったが、明治25年(1892)10月11日
に3校統一の「坂本尋常小学校」が設置され、翌年新校舎落成。
昭和42年ころの坂本小校舎 |
その頃の授業 |
久谷中学校について
久谷中学校はご存じのように、荏原中学校と坂本中学校が統合されてできたものです。簡単な歴史は次の
通りです。
荏原中学校のとき
・昭和23年(1948)、6・3制教育法の実施により荏原中学校が発足。
坂本中学校のとき
・昭和22年(1947)、6・3制教育法実施により、以前あった小学校のの高等科を廃止して3年制の
坂本中学校を新設。
久谷中学校設立のいきさつ
・昭和31年9月、荏原・坂本両村合併協議会において近い将来中学校を統合し、その位置を村境界付近と
することを決議。
久谷中学校
・昭和35年1月、荏原村と坂本村統合中学校設立を村会議において決議。これをうけて統合久谷村立久谷
中学校を創立。4月に開校式と入学式を実施。
・昭和43年(1968)10月、松山市立久谷中学校となる。
・平成4年(1992)、体育館完成。
・平成23年(2011)、新校舎落成式
荏原村・坂本村の発足
明治11年(1878)、「郡区町村編成法」により7か村は「荏原村」となります。
なお上部単位の郡は「下浮穴郡」。なぜ「荏原村」と恵原の旧称が用いられたかは7か村の中で
土佐街道があり、街道に沿って多くの民家、店、旅館などがあって荏原はその中心地であった。道路幅
も当時はどこよりも広かった。そういう事情に基づくものと考えられます。
坂本は浄瑠璃、窪野、久谷の各村をまとめて「坂本村」となった。坂本の由来は、三坂(御坂ともいう)の
ふもと(本)から。この時の郡役所は森松に置かれ、下浮穴郡の人口は38,474名です。
電灯がつく
大正10年(1921)、伊予鉄道会社が電灯工事を久谷地区で行い、ようやく家に電灯がつき始めます。
NHKラジオ放送の開始
昭和16年(1941)、松山にNHK(JOZK)の放送開始。ラジオ放送が始まりました。
その当時のラジオ。 |
大水害が発生
昭和18年7月21日の台風で4日間降りつづけた降水量は540ミリに達し、23日重信川の拝志村で堤防
が決壊。
中野、津吉、東方、河原、小村の田畑、道路、家屋が冠水した。18軒の家が流失し、47ヘクタールの
田畑が荒れ地となりました。
避難した人たちは荏原小学校の2教室にあふれたようです。
昔の面影
昭和26年時の食事風景 | 昭和32年の農家の風景 |
昭和50年代の台所 | 昭和40年代の雑貨屋 |
時は明治に代わっても時間の流れはすごくゆったりしていました。
戦後の昭和になっても江戸時代に使われたものと同じ製品が日常生活の中で見られました。
急速に変わったのは、1964年(昭和39年)に「新幹線」が走り始め、次いで1970年(昭和45年)に
「万国博覧会」が大阪の吹田市で開かれてからだと思います。
これを境に日本は急速に進歩をはじめ、日常生活が豊かになってきます。