久谷地区の疑問あれこれ

大友山」を読むとき「おおともやま」か「おおどさん」か。どちらが正しいの

  正解は「おおどさん」です。室町時代の古文書に「大堂山」とか「大戸山」とか書かれています。
 今のように使う漢字が決められてないか、または書いた人が適当の漢字を当てはめるかします。
 中世時代の古文書に「大堂山」とか「大戸山」は現在でもだれが見ても、「おおとも」ではないですね。
 なお、荏原小学校の校歌では「おおとも」になっていますが、作詞家が間違えたことが分かっています


この地域をなぜ「久谷地区」というのですか。
  
昭和31年9月30日に坂本村(3町)と荏原村(9町)が合併し、その時名前が公募になりました。
  当時一番山奥で森林を持つ久谷が猛烈に運動した結果、「久谷村」が生まれました。

     
漢字を分析すれば、「久」は長い意味。なので谷の長い村、というわけです。確かに久谷地区は、北側を除く三方が山に囲まれ、

    特に南北が長い地域です。大昔から最近まで久万(土佐)海道が走る恵原を中心とする荏原が栄えた場所でしたから、
    荏原村になっていた可能性もあります。


「恵原」と「荏原」の両方があるのですが。
       地名が付けられた大宝時代、荏胡麻がよく取れた場所が荏原でしたね。そこをさらに久万高原町や高地とつなぐ道路ができて、
      松山南部では一番栄えた場所となりました。なので、荏原村から荏原町村へと変わります。「町」は道路、住宅密集地が語源ですから、
      町が付いた理由がわかりますね。


       江戸時代、1700年代、荏胡麻が取れない理由で、庄屋が藩に申し出て荏原町村を恵原町村に改めてもらいました。
      明治になって江戸時代の上野、西野、東方、津吉、小村、荏原、中野の7村を統一した時、村の中心は荏原にあるという理由で
     「荏原村」になりました。それが昭和31年(1961)まで続きました。


       山には大友山、勝山、富士山のように特殊な「皿が峰」とか「槍ヶ岳」を除いて「山」がつきます。
      ところが、津吉と東温市の境になる山は「尉の城」なんですが、なぜでしょうか。
      それは久谷地域を支配していた地頭の「土岐」さんが、六位相当の官職である左衛門尉、右衛門尉に任ぜられたか、
      最後についている「尉(じょう)様の住むお城」が短くなって、「尉の城」となったようです。


「三坂」と「御坂」のいずれが正しいの。
        定説はありません。たとえば、江戸時代の遍路案内の本には「見坂峠」が使われています。
      「この漢字を使いましょう」のようになったのは明治になって教科書が普及してからじゃないかと思っています。
       峠の場合は「三坂」を、川の場合は「御坂」と今は使い分けています

       
       
なお、久谷中学校の校歌で間違えていますが、久谷川は坂本小学校から南300mぐらいの地点で右を流れる川です。
      いわば御坂川の支流です。

 

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