忠魂碑
忠魂碑をGoogleで調べてみると、こんな具合。
県庁所在地や都会ではなく地方に多い。
戦争で亡くなった方への思いは田舎ほどつながりが強かったせいで、惜しまれていたのかも。
ここ久谷地区にも2か所ある。荏原地区と坂本地区。
坂本地区に忠魂碑がある経緯は分かっているが、荏原地区は不明。
まず荏原地区。荏原支所の庭の西側に存在する。樹木があるため、目に付きにくい。
入口北側にある「まつやま道しるべ」。これには久谷地区の主な史跡などが荏原・坂本ともに
地図と写真で案内板になっている。
入口の突き当りのやや南側。「忠魂碑」ではなく「慰霊之塔」となっている。
皿の数は320枚。坂本の忠魂碑には233枚。図柄もかかれた記述も同じだが、荏原のほうが保存状態がきれい。
枚数になぜ違いがあるかは不明。
「由来記」で見る限り坂本公民館で平成4年に発行された「ふるさと坂本」に出ている絵皿の由来と同じ内容である。
その内容は、坂本地区の忠魂碑の場所で記しておきたい。
坂本地区の忠魂碑
浄瑠璃寺では鎮魂の皿のある公園は4月中旬から牡丹の花に囲まれ、訪れる人の心を癒している。
「ふるさと坂本」から「鎮魂の皿」の内容を転記する。
昭和二十年ころからしばらくの間、久谷中組に、郷土史家相原熊太郎先生が住んでおられました。
先生は坂本地区では、はじめて東京大学を卒業した人です。
相原先生は、太平洋戦争が終わってから、久谷地区の戦死者を出した家々をまわり、 戦争でなくなった人々の
様子をたずね、やさしい言葉でみじかい詩を書いて、それをいつまでも残そうと決心されました。そのためには、
詩を皿に書きしるし、それを焼きつけるのが一番良い方法と考え、砥部焼のかま元にたのんで三百枚余りの皿を
つくりました。
先生は、それらの皿を多くの人々に見てもらえるようにするため、円い大きな塔をつくり、そのまわりへ皿をはめこむ
よう計画しました。そのころは戦後であり、物質も少なく、人々は生活におわれ協力する人はありませんでした。
先生はとうとう計画をあきらめ、「皿は土の中へでもうめてください」と言い残し、浄瑠璃寺へあずけたまま東京へ帰られました。
昭和四十九年、NHKの取材する人たちが浄瑠璃寺をテレビに写すためやってきた時、ふと寺の床下からこの皿を
見つけだしました。
不思議に思った取材の人は、おしょうさんにこの皿のことについて話を聞き、「鎮魂の皿」と題して全国へ放送しました。
「出口(いでぐち)」の内科医、三好かつみ先生が「鎮魂の皿」の放送を見て感動され、「ぜひわたしにその塔を建てさせて
ください。」と願い出ました。
おしょうさんと三好先生は、この皿をいつまでも大切に残すために、いろいろ相談をしました。そして、デザインは
三好先生の考案で形を六角塔にしました。六角形というのは、仏教でいう「六道」を表しており、鎮魂の塔にふさわしい
形だそうです。
いよいよ工事にかかりましたが、つくる人々は、塔の組み方や石材の切り方、皿のはりつけ方に苦心して工夫した
ということです。丹波の相原誠一しげいち)さんが真心こめて観音様をつくり、塔の上に安置しました。
熊太郎先生は、この塔の出来あがったことを聞いて大変喜ばれました。それは、この塔を建てることによって、戦死した人の
最後の様子を永久に残し、霊をなぐさめようとの願がかなえられたからでありました。
それは、ユネスコの心と同じであり、また仏教の心とも共通する点があります。浄瑠璃寺では毎年八月十九日、ユネスコの
平和祭と、寺の慰霊祭をいっしょにおこなっています。