荏原の主な庄屋屋敷

東方村 渡部邸(国指定重要文化財)             西野村 宮脇家    

久谷地区における他の庄屋について            

古文書に残る二家の歴史      1 丹生谷家   2 光田家   

 

村方支配について
江戸時代、松山藩の村方支配は100石から300石程度の中堅武士3名が毎月交代で郡奉行を務め、足高米
あしだかまい)として100石・役料20俵をもらっていた。
代官所は、周布、桑村、越智、野間、和気、温泉、伊予、浮穴、久米の10郡と久万山と島方の2か所、合計12
箇所に置かれた。
郡奉行所・代官所には代官以下、手付4名、物書3名、遣番4名が常駐。その他、手代61名、月番8名などが
勤務していた。手代とは6石2人扶持から8石2人扶持程度の足軽身分。温泉郡には7名、浮穴郡には6名いた。

庄屋について
庄屋には郡を束ねる「大庄屋」、数か村を束ねる「改庄屋」があり、ともに郡役人との身分があり、大庄屋は藩
から3人扶持を貰い名字帯刀を許されて武士階級に属した。
松山藩の場合の庄屋は、大庄屋、改庄屋、庄屋、庄屋格、改庄屋格帯刀、平庄屋などの格式があった。

久谷地区の庄屋は藩から任命された世襲制だったようである。残念ながら、「久谷村史」「ふるさと坂本」及び
「ふるさと荏原」にも庄屋に関する記述はすっぽ抜けている。そのため古老の方に庄屋の名前と屋敷(跡)を聞いて
も特定なもの意外は知らない方がほとんどである。

現在調べた範囲で分かっているのは、次の通り。ただしこれらはあくまでも幕末期のものである。

中野村――丹生谷           窪野村ー船田         小村――藤田
東方村――渡部              恵原町村ー山口      浄瑠璃寺村――井口
久谷村――正岡、満田         西野村ー宮脇        上野村ー宮脇       

これらの家が庄屋だったかどうかは墓地の墓を見れば、その形からすぐ判断できる一種独特な姿をしている。
調べたことをその他の庄屋としてまとめておきたい。不明な点についても少し触れておきたい。
なお上記の庄屋は江戸時代を通してずっと世襲ではなく、「松山史料集」に出てくる庄屋名は、例えば久谷村に
は「満田」となっている。この名字はある時期に「光田」に変わっている。
津吉村には江戸時代当初はあったらしいが、不始末によりつぶれ庄屋となり、以後庄屋は置かなかったふしがある。


村方役人について
村方三役と言われるものが実質支配権をもった。庄屋組頭(村おさともいう)・長百姓である。小字(こあざ)
といわれる地域で田地・畑を多くもち、小作人や下男・下女を使っていたような豪農が組頭で藩の承認が必要。
長百姓は本百姓の中から選ばれ、年貢や費用の納入などが公平に行われるように立ち会った。

東方村渡部邸(国指定重要文化財)
渡部家は戦国時代の河野氏が支配していた頃から現在の東温市(旧川内町南方)で代々庄屋を務めていた。
江戸時代末期、松山市東方町(旧東方村)で村経営の建て直しのため松山藩主の君命により、南方渡部家の
三男だった渡部操長綱(みさおながつな)が入り庄屋として天保十五年(1844)、この地に分家した。支配した
東方村の米の収穫は江戸時代後半大体1.110石あまり。明治以降7か村が統合されて荏原村となるが、一番
大きな村であり、2番目は恵原町村の720石。
その庄屋が慶応二年(1866)に築いたのがこの重要文化財渡部家である。

敷地は約1,000坪。建物は約200坪。この家を建てるにあたり山口県大島から26名の大工を呼び、完工に6年を
費やしているらしい。使われている松や樫の木は140年から150年ものだそうである。
                               ( 毎週土曜日、日曜日(10:0016:00)一般に開放されている。下図はパンフレットから転写。
)



庄屋は武士階級に準ずるが、あくまでも農民ということを強調するため瓦屋根の上に茅葺を設けた。これを「越屋根」(こしやね)という。
二階の小窓は種子島銃用の狭間がある。
左端は郡奉行のように身分の高い者のみの通行が許された門があり、「お成り門」という。

米が3,000俵収納できたといわれる米蔵。
東道路側から米蔵を見る。
中庭から米蔵を見る
お成り門の全景。
土間から表座敷を望む

表座敷の上座の窓

土間おくどさんは新しい。


以下もう少し詳しく見ていこう。                           
    
正門の下には水が張ってあって堀の代わりと
なっていた。
正門左側は下男などが住んでいた。
普通の人は正門から入れず、裏門から入る。 
正門右側は物置部屋。
    
正門から少し入ると、身分の高い武士は
ここで中央にある石の上へ馬を下りて
右にある木に馬をつないだ。
帳場と言われる場所。中央一か所板が短く
なっている。ここからお金を渡した。
     
玄関上にある樹齢140年を超す松や樫の木。 井出創太郎氏のエッチングにより新しくなった
10畳間の襖。
井出氏の手になる新調された障子絵。  左は壁に見える「どんでん返し」
庭から見た表座敷。 表座敷から見た庭
お成門の屋根(右)にある鷲。  左側には「シサ」に似た獅子。
屋敷の東側にある変った屋根。 奥座敷


西野村 宮脇家

古い家屋は現存しない。蔵と周囲を取り巻く堀跡に昔の面影をしのぶことができる。

                               

  北東から西に向かった位置。
  往時の堀はもう少し広かったと   思われる。
  東西の幅はほぼ40メートル。
  北東から南側を望む。
  白い倉が見える。

  南北の幅はほぼ40メートル
  余りあり、敷地は大体300
  の正方形となってい  る。
  南東から西を望む。
  かかっている小橋は臨時的な   もの。
  南西から北側を見る。
  南西から東を望む。

                               



久谷地区における他の庄屋について

時代の移り変わりのせいか、今では江戸時代に庄屋を勤めた家や場所を知らない人がほとんどである。

高齢者の方でも興味のない方は、ほぼご存じない。久谷地区には9か村があり、津吉村にだけ庄屋が

存在しない。組頭による合議制だったようで、必要な場合は他村の庄屋の決裁を仰いでいた、と村の

檀家を預かる「安楽寺」の和尚さんの話であった。

 

江戸時代の農民にとって庄屋は雲の上の存在であり、村の行政、司法などをほぼ司どった。Wikipediaには

次のような記述がある。

「身分としては百姓ではあるものの、一般農民よりは一段高い階層に属し、その屋敷に門を構えたり、

母屋に式台を設けることができ、着衣や履物にも特例が許されていた(絹物や雪駄の着用)。 日常業務を

自宅で行い、庄屋宅には組頭等の村役人が集まり、年貢・村入用の割当てをしたり、領主から命ぜられる

諸帳簿や、村より領主への願書類等の作成に当った。」

 

久谷地区の庄屋は世襲制だったのか交代制だったのかどうか筆者には不明である。調べた範囲では一村に

二人の庄屋の名前があることから、村によっては交代しつつ、一応藩主の任命が必要だったらしい。

また、丹生屋(後に丹生谷)のように永代庄屋であった家もある。この家は東方村の渡部家に残る文書

(松山史料集第7巻)を見ると、津吉、上野、恵原町村の預かり庄屋だけでなく温泉郡、風早郡の庄屋差配を

兼ねるなど「大庄屋」となっている。

病身などの理由により、退役すると息子は「大割方(庄屋の前の身分)」に任ぜられ、やがて改庄屋格帯刀、
庄屋格、庄屋、改庄屋、大庄屋へと階段を上っている

 

明治5年各村では版籍奉還と同時に約260年間続いた庄屋、組頭、作改、五人頭等の村役は廃止されて庄屋は

里正と呼称を変えた。その任務も庄屋時代の代官の下役で年貢の取り立て機関のようなものから、一応住民

の代表者となった。

 

大区・小区の制度は、明治56月に布達されて、ただちに実施された。その後明治7年、同9年と区画の

変更があり、明治11年太政官(政府)の布告による郡制がしかれるまで6年間続いた。部制がしかれてから

大正15年までの46年間は郡役所(郡長)によって郡政が行われた。

しかし初代の里正は、例えば、久万ではほとんど全員庄屋が官選によって任命されたが、この里正も明治五年

の区画の変更されると同時に組頭と呼ばれるようになった。

 

 

久谷地区の庄屋名と屋敷(跡)並びにお墓(卒塔婆)を紹介しておく。

屋敷地も広い。墓も独特な形をしている。


                                     

 

村名 家名 住居() 墓(地)と卒塔婆
久谷村 正岡
住居跡には別人の表札があるが、無人化している。墓地は家のほぼ北東に向かって100m。
窪野村 船田
かなりの山奥だが、敷地は広い。墓地は家から近い道路わき。
浄瑠璃村 井口
後継者が住んでいる。墓地は浄瑠璃寺にある。
恵原町村 山口
山口家の長男が住んでいる。墓地は恵原町管理の場所。
上野村 宮脇
表から見ると庄屋の家とは思えないが、裏に回ると敷地の広さがわかる。墓地は家の斜め向かい。
西野村 宮脇
堀が周囲にある庄屋跡はここだけ。西野に寺はないため上野村の道旧寺に墓地がある。
東方村 渡部
建物は国の重要文化財となっている。墓地は大連寺。
中野村 丹生谷
左の塀の中が敷地だが、建物ともに放置されている。この家は代々大庄屋としての格式を誇った。墓地は心行寺。
小村 藤田
前方の空き地からむこうの家(現在別人が住まっている)までが敷地だった。墓地は札始大師堂前。
津吉村 庄屋は早い時期に廃止となり、組頭による合議制。重要な決済などは預かり庄屋に任せていたようだ。
永山、高市、石橋が現在分かっている組頭。

                      


付記
明治5年(1872)2月、松山県が石鉄県と改名されたとき、庄屋の代わりに「理正」が置かれた。多くは庄屋がそのまま横滑りの
状態だったが中野村、小村、恵原村は別の方がなっている。庄屋のいなかった津吉村にも置かれている。中野には「橘保清」、小村には
「池田佐太郎」恵原町村には「光田房太郎」である。別にできた新しい河原分には「武井正三郎」であるが、先の3か村の庄屋は幕末当時
誰だったのか分からない。

ところで、松山史料集を読んでいると、東方村庄屋の渡部家に残る文書が掲載されていた。それによると、江戸時代の早い時期に東温市
上林村の庄屋であった丹生屋家の記録がつづられていた。それを一応現代語訳にしてここに載せておきたい。




 渡部家文書(松山市資料集に保存されている)
 

 「丹生屋家功績書  文化9年春(1812)書き改める」(原文は漢文体だが筆者が現代文に書き換えた。漢数字も読みやすいアラビア数字を使い、
                                                                       江戸時代の元号には西暦を示した。)

 

先祖丹生屋七右衛門は上林村で政務中毎年功労があったので、その内容を覚書にしておく。

           当主七之右衛門の曽祖父の丹生屋七之右衛門    (注)子が父の名を継ぐことは江戸時代は多々ある。

 

1 元禄時代(16881702)は上林村庄屋も勤めていたが、津吉村にある田んぼ27町5反、取れ高154石1斗9升3合は出来具合

  が悪く不耕作地も耕したが水不足もあり、年々不作になっている。このままでは田んぼとして成り立たない。

  文化9年(1812)上林村については庄屋の又作と一緒に中野村へ行き、水利の件を話し合う。その結果、何箇所か土地も回復し、

収穫も増えてきたため藩から「郷手代」役を命じられ、ご褒美に米3石を頂いた。

   当主七之右衛門の祖父 丹生屋七右衛門は33年間勤務

 

1 宝永(17041710)の頃、東方村庄屋を預かる。しかし、久谷村の庄屋の満田次太夫が宝永年間に入庄屋を命じられ、正徳2年

  (1712)まで勤務。というのも、大庄屋を勤めていたため、東方村の庄屋をお断りし、本家相続のため久谷村へ帰った。

  その庄屋跡継ぎとして、当主七之右衛門の祖父七之右衛門は津吉村の田地を中野村に譲って、正徳2年(1712)東方村の庄屋を仰せ

付けられた。

なお、曽祖父の七之右衛門については、郷手代の身分のまま東方村へ赴任。先の庄屋へ与えていた米218表はそのまま与える。

 

1 正徳4年(1714) 郡年行司となる

 

1 享保元年(1716) 改庄屋となる

 

1 享保12年(1727) 郷手代となり、米3石給付される

1 享保13年(1728) 薬草見習い御用として、紋付麻の着物上下を頂く

 

1 享保19年(1734) 郷手代をはなれ、大庄屋格となる。金子二百疋頂く

 

1 寛保2年(1742) 病のため大庄屋を返上し、同じ格式でいることを認められる。

  33年間の勤務で、七之右衛門の親である。続いて息子の七之右衛門(同じ名前を引継ぐ)

 

1 享保元年(1716) 大割方(庄屋の下の身分)となる

 

1 享保3年(1719) 庄屋となる

 

1 延享3年1746)  藩の巡見使の御用係を務める

 

1 宝暦2年(1752) 池や川の普請担当者となる

 

1 宝暦3年(1753) 御親藩西条藩から来た役人のお宿となり、金子二百疋を頂く

           米受け取りのため香川や岡山へ出向き、2月に褒美として米五表頂く

 

1 宝暦5年(1755) 大割方を兼ねる (名前が出てないが、息子と思われる)

 

1 宝暦8年(1758) 改庄屋となる

 

1 宝暦9年(1759) 親の七之右衛門に紋付麻の着物上下を着るように仰せがくる

 

1 宝暦11年(1761) 藩の巡見使の御用係を務める

 

1 明和3年(1766) 城の堀浚いに際し作業をしたりお金を出したので、ご褒美が出る

 

1 明和5年(1768) 大庄屋となる

                     温泉郡、風早郡の庄屋差配となる

                    左川谷池修繕工事を受ける

 

1 安永3年(1774) 年川発(場所不明)まで出向いて仕事をしたため、金子二百疋頂く。また代官所役所にてお酒や吸い物などを出される。

 

1 安永4年(1775) 年初に複数郡の庄屋の総代となる

 

1 安永5年(1776) 荒地の開発担当者を仰せ付けられる

 

1 安永6年(1777) 上の事業をよく果たしたので、藩から褒美が出る

 

1 安永9年(1780) 大庄屋一役となり、倅の弥次郎が村庄屋となる

           池や川の普請担当者となる

 

1 天明4年(1784) 城に落雷の火事があり、防火に努めたので藩から褒美が出る

           郡方の仕事に精励したので、藩から褒美が出る

                            「皆」姫誕生の際、紋付麻の着物上下を着て庄屋総代としてご祝儀を届ける

           お礼として藩から紋付麻の着物上下を拝領する

           江戸へ米の回船につき努力をしたので、ご褒美を頂く

 

           38年間勤務 弥次郎こと丹生屋七之右衛門

 

1 安永4年(1775) 庄屋となる (七之右衛門の倅か)

           楮(こうぞ)植え付け担当者

 

1 安永5年(1776) 津吉村の預かり庄屋

           同じく上林村の預り庄屋

1 安永6年(1777) 池や川の事業及び空き地に松の植え付け担当

           水利全般の御用係り、 西野村の預かり庄屋

 

1 安永7年(1778) こうぞ、桑の植え付けならびに蚕の繁殖担当

           薬草の植え付け担当

 

1 安永9年(1780) 改庄屋格となり帯刀が許可される

 

1 天明2年(1782) 紋付麻の着物上下を着るように仰せあり

 

1 天明6年(1786) 久万山直瀬村の百姓たちが田窪村へ来ていたが、そこで説得して直瀬へ帰還させた。その褒美として

           銀八匁頂く

 

1 天明7年(1787) 大割方となる

           改庄屋となるが、寛政元年(1789)その役を解かれる

 

1 天明8年(1788) 津吉村地組御用係り(田畑の割替、すなわち分割し直す)となる

 

1 寛政元年(1789) 藩の巡見使の御用係兼付添い係を拝命

           恵原町村の預かり庄屋となる

 

1 寛政2年(1790) 再び改め庄屋となる

           温泉郡と和気郡の水利問題で両方の土地へ赴く

 

1 寛政6年(1794) 上野村の預かり庄屋となる

 

1 寛政8年(1796) 池や川の事業を依頼される

 

1 寛政12年(1800) 池や川の普請担当者としての働きが顕著であったので、ご賞賛とご褒美を頂く

1 享保2年(1802) 山林保存などの功績により、お山奉行からご褒美を頂く

 

1 享保3年(1803) 郡や村における作業や事業が立派であったため褒美として米3俵頂く

 

1 文化4年(1807) 川浚いの作業の手伝いや米の供出などにより、お酒を頂く

 

1 文化5年(1808) 郡や村における作業や事業が立派であったため褒美として米3俵頂く

 

1 文化9年(1812) 病身によりお役退任の願い、もっともであるので聞き届け、今までの功により倅「嘉作」に

           改庄屋格と帯刀を許す。

           退任届けの相手は、代官―谷 十兵衛、元代官―木原 左兵衛、手代―森田太兵衛、

大庄屋立会―橘 庫右衛門

           差出人―丹生屋七之右衛門


残る疑問点


文献、古老の話し、墓、屋敷跡などを調べて久谷における江戸時代の庄屋はほぼつかめた。しかし、調べているうちに

いくつかの疑問点が浮かんできた。

その1つは、明治5年(1872)に各村に里正が置かれて庄屋の機能を果たしている。江戸時代の庄屋がほぼそのまま横すべりで

里正となっているが、恵原町村は「光田」、中野村は「橘」、小村は「池田」で庄屋とは姓が違う。


恵原町村の里正は「光田」であり、この家の墓は本来檀家のない「文殊院」にある。屋敷跡地は不明だが、墓はきわめて

立派である。文殊院に尋ねたところ、光田の屋敷跡地は分からないが、明治の初め大阪に出て商売を始め、成功したので

その後分家も呼び寄せたらしい。そのせいかどうか、恵原に「光田」の姓は一軒も存在しない。

下の写真が文殊院に存在する墓である。恵原の庄屋であった山口さんに聞いてみると、光田のことは何も聞いたことが

ないらしい。


この卒塔婆はきわめて身分の高い武士なみのものである。
一庄屋に果たしてこの規模の墓が認められたのか、なんとも
不思議である。
「寛永丙子(1636)八月十九日 常八月十九日」が右側に。
「実 正徳二年(1712)五月二日」左側に書いてある。
別の墓には、「光田家中興起 橘庫右衛門潔稫」
「享保三年(1718)九月十三日」などの文字が見える。
宝暦七年(1757)六月十六日
光田與市右衛門  と読める。

 

中野村と小村は現在不明のままである。しかし、小村の墓地でおもしろいものを見つけた。

三好家の場合、江戸時代は小村の開祖であるため、庄屋ではないが同格の格式を許されたらしい。

「慶長年間(1596~1615)小村開祖
三好家累代之墓」と彫られ、昭和3年作成のもの。
左の碑銘の横にあるこの墓は文化元年
(1804)となっている。三好新五の文字が
見える。


 久谷村庄屋「満田(光田)」家について

次に久谷村の正岡家と同じ墓地だが、面積も広く、墓も大きい「満田(後に光田に改称)」を調べてみた。幕末は正岡家が庄屋だが、
光田家も長年久谷村の庄屋をしていた。その記録があるので、後年のためここに載せておきたい。
なお、古文書の解読は主として
平岡瑛二氏のお世話になった。

立林家累代誌

 

伊予浮穴郡久谷村 勝山城主「立林雅楽守越智知宣(たてばやしうたのかみとものぶ)」は天正18年(159024日、62歳にて逝去。

法名を「法林院殿荘岳淨巌大居士(ほうりんいんでんそうがくじょうがんだいこじ)」となる。

同じく子どもであった「大膳内匠(だいぜんたくみ)」は落城後宇和島小川に」移った。

次男の内匠は久谷村に住み、「満田九郎左衛門」と名を変えて、隠棲した

 

慶長19年(1614)、大阪冬の陣で手柄功名を立て、天下に知られたが、残念ながら大阪落城後帰村した。

 

元和3年(1617)、願いをかなえられて村に居住。庄官(庄屋)として働き、寛文2年(1662

724日生を終える。

 付記  庄屋満田九郎左衛門 墓には立林雅楽守(うたのかみ)と記す

     墓所は本組みにあり、寛文年間(16611671)庄屋九郎左衛門として家を構え、息子の与左衛門は野中へ移る。

 

承応2年(1653)、庄屋を仰せ付けられる。天和元年(1681)まで勤めて、息子の次太夫じだゆう)に相続させる。

     恵原町村の庄屋も仰せ付けられる。

 

満田与左衛門の息子次太夫について

父の満田次太夫は恵原町村へ引越しを命ぜられたので、天和元年(1861)に父与左衛門の跡を

継ぐ。

元禄11年(1698313日、改庄屋を命ぜられる。翌年929日、豊島与三右衛門

(よざえもん)の邸宅で、藩主がお泊りになっていたときに次太夫が呼び出しを受け、馬を頂戴した。

元禄15(1702)311日、大庄屋を命ぜられる。

宝永2(1705)東方村の庄屋を仰せ付けられて出向く。

 

満田次太夫の弟 満田与次兵衛(よじへえ)について

宝永2年(1705)庄屋を命じられたが、同4年までの3年間勤めて病死。

 

満田次太夫の息子 満田平六について

宝永4年(1707)庄屋を命じられたが翌年病死。

 付記  満田次太夫は東方村の庄屋を勤めていた間に先祖へのお供えとして久谷村の中から15代4方1反1畝21歩、

     石高1石7斗5升5合を宝永7年(1710)3月に「西楽寺」

     に与えた。これは久谷村の伝右衛門が耕作している土地なので、年貢米のほかに米3斗にした。

     西楽寺の和尚からそのお供えはいつでもよいとの申し出があった。

     平六の後釜に上林村の半七が卯年(1711)まで勤め、お役ごめんとなり上林村へ帰る。

その後は、上林村の次兵衛(じへえ)が翌年庄屋を仰せ付けられ、正徳元年(1711)まで勤めた後、上林村へ帰る。

 

満田次太夫は久谷村へ帰った後家名を相続し、正徳2年(1712)2月10日東方町村から次太夫が帰ったのであれば、

東方村がとても屋っていけないのでぜひ大庄屋を引き受けてほしいと依頼があったが、その年に亡くなった。

東方村の庄屋を継いだのは丹生谷伝右衛門である。

 

満田次太夫の二男 満田清八について

正徳2年(1712)庄屋を命じられ同4年まで務めたが病死。本人の跡は東方村の丹生谷伝右衛門が預庄屋として

享保元年(1716)まで務める。その後、満田次太夫の甥にあたる十兵衛は浄瑠璃の寺村にある井口八郎右衛門の

養子となり、享保元年に庄屋となるが、翌年病死。

井口家はそのまま預庄屋を続けるが、3年(1718)お役御免となる。

 

満田次太夫の甥 満田次郎兵衛について

享保3年大洲藩の下唐川村の庄屋菊沢九左衛門の弟である十兵衛の家へ養子として迎えられる。

同年庄屋となり、元文元年(1736)に預庄屋。翌年には大庄屋となり、紋付の袴上下をいただく。

しかしこれまで皆が短命な理由により、満田を「光田」に変更し、紋の片葉に剣があるのを菊澤家の紋である

糸輪の4つ割りに変え、名も光田次太夫とした。元文5年(1740)のことである。

 

いろいろと御用を仰せつけられ加増として2人扶持、合計5人扶持となる。同年(元文5年)釣嶋と名のついた

馬を拝領する。

宝暦9年(1759)大庄屋となり、息子の長三郎は庄屋となる。宝暦13年(1763)藩主跡目相続式典に庄屋総代と
して参加。明和5年(176827日病死。
 付記  旦那寺は代々東方村の心行寺にある浄土宗だったが、享保2年(1717)大洲藩の下唐川村の庄屋

菊沢九左衛門の弟である十兵衛の家へ養子として迎えられたのを機会に、家紋も改め、宗門も真言宗である浄瑠璃寺

に変えた。親族一同集まって協議し、心行寺にそのことを話し、難しいことであったが八左衛門の世話で次郎兵衛

(次太夫)一代限りとして納得してもらった。

 次太夫が亡くなった後、長三郎(その後の名前は弥四朗)が心行寺へ旦那の話をしたが、浄瑠璃寺からも次太夫一代

 限りのはずであるので、1人だけは浄瑠璃寺の旦那になってもいいということになった。

 

満田次太夫の息子 長三郎(弥四朗)について

宝暦9年(1759)庄屋となる。13年改庄屋格。明和3年(1766)親の次太夫が病身のため大庄屋を辞退し、格式だけ

そのまま残し、息子の弥四朗が大庄屋となる。安永4年(17751110日病死。

安永4年から窪野村庄屋永田新五郎が預庄屋となる。同6年役を解かれる。

 

満田弥四朗の弟 伝右衛門と次太夫について

安永6年(1777)庄屋となり、天明4年(1784)改庄屋。同5年大庄屋。

寛政2年(179012月大洲藩領下唐川の庄屋菊沢与八郎の息子九十郎が養子として縁組。

与八郎は庄屋となり、次太夫が一代の大庄屋となる。

寛政4年(1792212日、馬を預けられ毎年2人扶持と裃上下をいただく。

寛政10615日、病身のためお役返上。

九十郎は大洲藩領下唐川の庄屋で、与八郎の家に戻ったため預庄屋となる。

同年7月、光田次太夫は大庄屋のお役御免となるが格式はそのまま。代わって甥が大庄屋。

榎木伝左衛門の二男が養子として来る。

 

光田次太夫の息子 門次について

文化元年(18042月庄屋となり、藩主にお目見えをすませ、お祝いにお米を差し上げたところ大変喜ばれた。

文化12年(18156月に」改庄屋格となる。紋付の裃上下をいただく。

文政5年(1822)年422日病死。

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