松山市立坂本小学校

松山市立坂本小学校(まつやましりつさかもとしょうがっこう)は愛媛県松山市最南端に位置する、

男女共の公立小学校である。

主な項目

概 要  沿 革  校 歌  写 真  余 話



概  要

松山市立坂本小学校
国公私立の別      公立学校
設立年月日 明治25年10月11日
校   訓 たくましく、美しく        
生徒数 68名  (H.28.6.2日 現在)
内訳 (男 38名、女 30名)
共学・別学 男女共学
教職員数 16
所在地・連絡先
所在地 〒791-1132
愛媛県松山市久谷町30番地
電話番号 089-963-10541121
FAX番号 089-963-4482
外部リンク 公式サイト


校区
      旧坂本村をすべて含む。面積は30.25平方キロメートルで山林が9割を占める。御坂川源流地。
      東は東温市、西は砥部町、南は久万高原町町に接する。幹線道路は土佐街道と言われた
      県道194号線と新しくできた207号線が幹線道路。史跡が多い。

規模     
     児童数 84      学級数 7(平成22年度)     ・教職員数 12名


教育目標
         自ら考え、たくましく実践する心豊かな児童の育成



沿  革

               優良消防クラブとして消防庁長官賞受賞。



校 歌

作詞  光田 稔

作曲  野口多喜夫

1 三坂路の峰が大きく波打って      夏にはみどりの木がしげり

  秋にはみかんが黄にひかる       がっこうでやっほうって呼んでみろ

  山の上まできこえるぞ             れがぼくらの坂本だ

  ああむねはって山をあをごうよ

2 久谷川にきれいな水がせせらいで   広がる平野のそのさきに
  くっきりお城が浮いている        学校でおういって呼んでみろ
  天守閣まできこえるぞ          これがわたしらの坂本だ
  ああ目をあげて町をみようよ  


3 この山とこのせせらぎにいだかれて     仲よく元気に学ぶもの

  世界の人に育つもの           学校でやるぞって呼んでみろ

  家の中まできこえるぞ          これがみんなの坂本だ

  ああ声あげて高くちかおうよ 


児童数の変遷 

年度 昭和34年  昭和38   昭和45   昭和55  平成元年  平成5 
児童数 487 307 211 193 136 134
年度 平成10 平成11 平成12 平成13 平成14 平成15
児童数 130 127 127 132 133 147
年度 平成16 平成17 平成18 平成19 平成20 平成21
児童数 154 144 133 118 103 95
年度 平成22 平成26 平成27 平成28
児童数 84 81 73 68



学校の写真

正門前 玄関前
授業風景 体育館で保護者と一緒に
中庭 運動場、体育館、校舎
校訓碑 二宮金次郎像
皇紀2600年(1940)記念人文字 校庭で。1960年代前半だろうか?
戦前の修学旅行 戦前の運動会


坂本小学校のホームページ

松山市立小学校一覧

余 話
ここには創立百周年記念誌「さかもと」から古老の学校の思い出や在籍していた田中睛さんの思い出を記してみたい。

内容はできるだけ原文に基づいた。


大正4年卒(W氏)・・・その頃の小学校では、入学、修卒業式、祝日の式典の際、式場づくりが大変だった。
        木造平屋建ての教室だけだったから、間仕切りの板戸を全部取り外し教壇、黒板、机などを全部
        端の教室へ運び、私たちが使っている腰かけを並べて式場づくりをした。祝日の式典の際、奉安殿
        から天皇、皇后両陛下のご真影を式場に移し正面に掲げ、校長先生が正装されて、白い手袋を
        はめ、教育勅語を厳かに拝読した。その時の緊張した雰囲気は今も忘れられない。


昭和6年卒(N氏)・・・同級生54名、靴下も靴もない時代、チリ草履、竹の皮草履、アシナカ、雨の日は下駄で
        通学、教室の前に54名の履物が、整然と並べられた光景、今も目にしみる。
        教室には、二人掛けの机がぎっしり並んでいた。芋掘りどきには、洗ってもおちない芋のあくを手につけ
        稲刈りどきには、ぼろ布で指をしばって、血をにじませている者もいた。
        弟や妹を背負ってくる者もいた。田畑に働く子どもの姿が、あちこちにみられたものだ。
        本は、教科書以外は、買ってもらえず、本屋には、小学○年生という雑誌があったが、20銭もした。
        ねだりもしなかった。ねだって親の困った顔を見たくなかった。


昭和19年卒(A氏)・・・私ども小学生も食糧増産のため窪野の宮方に報国農場を開墾して芋や麦を作ったり
        農繁期には学校は農繁休みとなり数日間家庭で子守や田畑の手伝いをしたものだ。
        5年生の時、校名が変わり国民学校初等科と改名した。紀元2600年の式典が盛大に行われいよ
        いよ戦時体制が整い「太平洋波高し」と叫ばれ多くの者が軍隊に召集され、その度に村をあげて
        出征兵士を村境まで見送った。


・昭和23年卒(H氏)…登校時も整列、行進で頭右の号令で入門し、忠魂碑(現二宮金次郎像)に向かって
        最敬礼をしてから授業が始まったのです。
        でした。母が夜なべに縫ってくれた着物にえび茶色の袴をはき、もらったお小遣いは50銭でした。


昭和47年卒(H氏)・・・小学校の校門を入ったところに、銀杏の大木がある。(略)今から遡ること20数年前の
        小学生時代、その時も大木であった。その木の下で、よく級友たちと「天下取り」なるボール遊びを
        したものだ。また夏の炎天下の水泳大会、、グランドを力一杯駆けた秋の運動会、白い息をハア
        ハアいわせて頑張ったマラソン等々。銀杏の木は、それらを静かに見守ってきた。

        

田中睛さんの小学校時代の思い出
昭和23年度の卒業。以下の内容は大体5年生くらいまでの思い出である。以下頂戴した文は原文の
まま転載させていただきます。


「当時の坂小」

昭和17年坂本小学校入学その頃は、国民学校1年生と呼ばれていました。

校門をくぐると、左手に「忠魂碑」があり(現在はその石で二宮金次郎を刻んでいる)正面に職員室、続いて南校舎、

中庭をはさんで(左手)北校舎、1年生の教室はその一番はしっこでした。中庭にそびえる楠の木の大木が今でも
印象に残っています

その当時で今残っている木は、体育館の前にあるイチョウの木ぐらいだろうか?それから、いまの校門につづいて
駐車場あたりに二階建て(この高さ12メートル76センチと書いてあった)の校舎があり、これは南校舎、北校舎、
より後から建ったもので外部の板はペンキが塗られていた、下が工作室、工作準備室、理科準備室、理科室、
二階は、高学年1・2の教室、その奥が和室の裁縫室だった。今考えてみると当時の先生は大変だったと思う、
一学級60数人の鼻たれ小僧をかかえて

サイタ サイタ サクラガサイタ。」入学までに自分の名前が書きかねて、数100まで数えられる子が何人いた
だろうか・・・・

1年生、2年生、の運動会は1等2等と賞品に鉛筆がもらえた、3年、4年になると紙きれに1等賞と書いたもの
だけ。戦争たけなわとなり、運動場もすみから開墾して「いも」が作られるようになり、5:6年生の教科書は刷り
たてで製本に成ってない本がくばられた。


体罰

1:2年生頃は集中力がなく「よそ見」。後ろから前の子の頭をつつく、で注意されるくらいだったが、だんだん
悪さも込み入ってきだし、黒板拭きを先生が入ってくる、戸の上にはそみ、開けたとたん頭に落ちてなどと・・・
関係者数人廊下に立たされる。

黒板の横には「竹の鞭」がありカッンとやられることなど日常茶飯事、と言ったところ。
家に帰って先生に叱られたことなど一切口にしない、言えば親にもう一度叱られるから。



校外生活


1年で田植え、秋の稲刈りは、農繁休業で2~3日学校が休みになった、食糧増産と国策で、出世兵士で働き手
の少なくなった、農家の手助けが子供たちにまで回ってきた時代だった、そのほかにも家の手伝いは四季を
問わず何時ものことだった、夏近くの川に(プールはなかった)泳ぎに行きたくてウズウズしていても、田圃の
ころがし(除草)をすませてでないと叱られる。やっと済ませ川に飛び込んだ気持ちのよさは夏になるといつも
思いだす、川で夕方まで浅瀬を堰き止め魚を捕ったり、遊ぶことには事かかなかった、土用祈祷といって鐘、
太鼓で高2
高1、6年生と上級生を先頭に笹をふり、お札をはさんだ竹の棒を左右に振りながら「ナアマイドウ、
ナアマイドウ、稲の虫が目むいだー」と大きな声を張り上げて、組中の田圃の道を歩いてまわった。そしてお札を
はさんだ竹を地区の組の境に立て廻り集会所に帰ると、大人の人から「きなこむすび」と沢庵を頂き、川へ向かう。
体についた虫おとしだといって皆で泳いで遊んだ。

その他にも秋祭り、春祭り、生目さん、お施餓鬼、窪野のお薬師さんと縁日を追って走ったものだ。


食べ物

「ひちりん」でお茶をわかし、「おくどさん」で釜めしを炊いて、なべで野菜を炊いておかずに、この3つが基本だった。
ところが昭和20年終戦をはさんでの小学生時代は食糧事情の一番悪い時期で米のご飯など祭りと正月くらい。
あとはおお麦飯それも腹いっぱい食べれれば良い方だった。


甘いものなど一切なく、サツマイモのふかしたのが一番おいしかった時代だった。

遠足で秋砥部の「銚子が滝」へ行ったとき、葉の落ちた柿の枝に真赤になっている柿の実。あれを一つもいで食べたら
美味しかろうになあ・・・横目で眺めて歩いたころが思い出される。


乗り物
今のように自家用車が全戸にあるような時代ではない、自転車ですら全戸にはなかった。

とにかく移動は足を使って歩くことが基本だった。そして歩くことがあまり苦にもならなかった、松山に行くときは
森松まで歩き、そこから坊ちゃん列車にゆられて松山へ。また今のように松山へたびたび行くようなこともなかった。


伊予鉄のバスが開通するまえ、少しの期間(戦後)駅馬車が2台森松まで通っていたが、長い期間ではなかった。

自転車は子ども用などなく、大きい大人用の自転車では足がとどかないから、「よこのり」といって中央の三角のところから右足を
さしこみ、体をねじまげてペタルを踏んだものだ。


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