「新張城」(城館)について
主な項目

はじめに 荏原から今治へ
土岐氏の入部 土岐氏に関するその他の調査
浄瑠璃寺の再興 中世の地域権力と西国社会における川岡勉氏の見解
伊予に残る土岐氏系図 関連事項歴史年表
室町時代以降の土岐氏 参考資料
戦国時代の土岐氏 今に残る新張城館跡(写真)
土岐神社と諏訪神社の関係

はじめに

恵原町小字新張に存在する通称「新張城」とその東側の津吉という地区の小高い山の上にある「尉の城」は共
に土岐氏の本陣城と出城である。本陣(地元では親しみを込めて「新張さん」とも言われている)の北面は御坂川の

河岸段丘を利用し、東西及び南面は堀による防御施設を備え、さらに南面にはかき上げ土塁が残っている。内部の
目隠しも兼ねているのだろうか。それとも往時は板塀で囲われていたのだろうか。
出陣時の大手と侍屋敷の配置遺構も保存されている。

城の構えを残している堀は、南北約80メートル、幅5〜8メートル。南端がほぼ直角に折れ曲がっており、中央部が

途切れているのはここが大手か虎口の役割を果たしていたものかもしれない。城の北端は段差おおよそ3メートル余の
断層崖が自然の防壁となっている。昔は崖下までが御坂川だったことは一目瞭然である。
また、土岐神社が置かれている南東部には小高い土盛りが見られるが、これは土塁の跡で以前は堀の内側をぐるりと
取り巻いていたことであろう。堀を掻き揚げた土は通例土塁として使われていたからである。

この新張城については「伊予温故録」に「恵原町字新張に三反歩ほと地面の小高き所あり是れ『城の内』(しろのうち
と呼ふ 即ち当城の跡なり 土岐山城守浮穴郡徳川城主手勢五騎とあり」と記されている。
(伊予温故録 宮脇通赫著 名著出版 P.420

この遺構は一目瞭然地頭屋敷の形態であり、日常生活を送っていた場所である。緊急を要する場合、津吉の
「尉の城」(じょうのしろ)にこもって敵を防いだと思われる。平地に城郭が建築され、居住と防御が一体化したのは近世になっ
てからである。

新張城の遺構としての重要さは、その居館遺構にある。中世城郭といえば、「尉の城」や近くに残る大友山城、
その他全国各地に残る山城の存在が有名であるが、城主たちの日常生活はそのような奥深い山中にある山城のみで
行われていたとは到底考えられない。山城と生活が一体化したのは室町後期(戦国時代)である。

山城は軍事的拠点であり、平常は山麓に居館を設けて生活し、領主として地域の支配にあたった。山上の城郭遺構に
比べて、山麓や平地の居館遺構がそのままの姿をとどめている例は極めて少ない。というのも、中世末期または戦国
時代に城主が滅亡して廃城になった場合、山上のものはそのまま打ち捨てられ、建物は朽ち果てても郭、堀切、土塁、
石積みなどは残存する。一方、平地などの場合、近世・近代を通じて開墾の手が加えられ、田畑となり消滅することが多い。
その中で「新張城」は数少ない居館の遺構をとどめている。

http://user.shikoku.ne.jp/nibari1939/image/nibari-jo/image002.jpg
(新張城の縄張り図 「湯築城と伊予の中世」 
川岡勉・島津豊幸共著 P.101から)
本城ともいえる山城の計測図。
1995年頃、森光晴さんの計測による。
竹内真人氏の想像図  村史にみえる縄張り復元図。


土岐氏の入部
鎌倉幕府第15代執権北條貞顕『(屋号を用いて金沢貞顕(かねさわさだあき(1278−1333)』の書状の一部に「伊予国守護注進に

土岐左近大夫殺害せらるの事候やらん 御沙汰候の躰にては候とも 罪名をも付けられ」(伊予国の守護が有力御家人で

ある土岐左近大夫に殺害されたことを鎌倉に注進してきた書状)とあり、この頃すでに土岐氏が伊予の国にいたことを実証

している。

「続群書類従」百二十八所収の「土岐系図」では、土岐氏の祖光衡の孫光定のところに「法名定光、興源寺と号す 伊予国

荏原村に在り」と注記されている。

土岐氏の系図は判っているものは以下の通り。

光衡――光行――光定――頼貞――頼清――頼康――康行――康政――持頼
             |     |
            定親――頼遠――頼雄――康行
                              |
                 頼忠――頼益――持益――成瀬――政房――頼芸

光定の生没年は不明である。父光行が源実朝(11921219)に仕えていたことが系図からは明らかで、子定親の頃の嘉元三年

(1305)に討死していることが見える。このことから判断して、鎌倉時代の中期には土岐氏が美濃の国から荏原の里に地頭として

西遷していることはほぼ確実であろう。


また光定ゆかりの興源寺は今は残されてないが、延宝8年(1680)に成立した久米郡の国人領主戒能氏の系譜である「戒能略譜」に、

慶長5年(1600)における荏原地方での合戦で「江原町筋並びに興源寺」が焼き払われたと記されていることから判断して、近世初頭

まで興源寺が存在していたことは間違いない。とすると、鎌倉中期の先祖の一人が伊予の荏原地域に関係を有していたことも断定

してよかろう。


土岐氏がどのような事情で伊予にやって来るようになったか示す文書は残ってないが、承久の乱(1221)の際後鳥羽上皇側に味方した

越智氏の流れをくむ河野氏の統治下だった浮穴郡が土岐氏に与えられ、美濃の国から地頭として派遣されたと考えるのが至当で

あろう。当然河野氏の監視も兼ねていたと思われる。

ここで最近伊予史談会に所属されている竹内真人さんとお会いし、有益な話と関係資料を読ませていただいた(2014.年5月2日、

荏原公民館)。精力的に資料を収集され、それを文書化されているのでご許可を得てその内容の一部をところどころに挿入させて

いただく。{  }竹内真人さんの文章であることをお断りしておきたい。使った資料名は「鎌倉時代末期の久米郡東南部及び

浮穴郡  −北條氏及び土岐氏の地頭職の領地を巡るー」である。。

{「土岐系図(続群書類従)」に「三定(本光貞)号興源寺在伊予荏原村 弘安四年(1281)没 法名興源寺殿宗岳定光大居士}

{「土岐系図(尊卑文脈)に「隠岐守従五位、土岐五郎、依追捕搦進悪党讃岐十郎任隠岐守、光定(本貞)法名定光 号興源寺在伊予国

  母千葉介(平頼胤」}  (土岐五郎(光定)は進んで悪党の讃岐十郎を召し捕ったので、隠岐守従五位に任ぜられたの意味)

{「土岐氏略譜」に土岐氏五男、光行が承久の乱敗戦後に浅野隠棲により土岐氏総領となり・・・(略)・・・伊予国浮穴郡地頭補任、

  妻九代執権北条貞時の娘、補任地は浮穴地方、他に上総国、常陸国、美濃国、三河国などを拝領。・・・(略)・・・興源寺は光定の

  息子である美濃国守護伯耆守従五位土岐頼定の創建したものであると推定するのが妥当である。

浄瑠璃寺の再興
伊予における土岐氏が次に資料上に姿を見せるのは、光定の孫である頼清である。前掲「土岐系図」は頼清の項に「六年在国、

召されて伊予国より洛に赴く 途中痢疾を感じ摂州芥河において六月一日卒」という注記を付している。これは足利尊氏が九州から

瀬戸内海を東上したとき、土岐伯耆六郎が、四国の細川氏や伊予の河野氏と共に参陣したとする「梅松論」の記事との関連が

考えられ、信憑性は高い。
そして頼清の子頼雄のときから伊予との関連を明確な資料で確認できる。

「伊予国荏原郷浄瑠璃寺の事、当寺破壊の間、たやすくは修理興行に及びがたし、而して禅院に改め、月峯円和尚に寄付し奉る

所也、且は門徒寺として、天下安泰、家門繁栄を祈らしめん給わんがため、仍て寄進の状件の如し、延文三年戊戌十二月十一日  

沙弥祐康  在判 」         
(京都紫野の臨済宗大徳寺の古文書)   注:沙弥祐康とは土岐頼雄の法名         延文3年は1358

上の文書は、延文3年(1358)12月11日付で発せられた沙弥祐康の寄進状で、「荏原郷にある浄瑠璃寺が『破壊』されていて

『修理興行』に及び難いので「禅院」に改め「月峯円和尚」に寄進する、和尚のいる大徳寺の末寺にして天下安泰と家門繁栄を

祈ってもらいたい、これが証拠の寄進状である(以上筆者の訳)」というもの。

現在の浄瑠璃寺は、四国霊場46番札所の真言宗寺院として著名であるが、中世における同寺の姿についてはほとんど従来知ら

れてなかった。同寺の資料上の初見は建長7年(1255)の伊予国仏閣等免田注進状写で、同寺がすでに鎌倉時代から存在して

いたことは間違いない。おそらく南北朝の内乱の中で荒廃し、それが資料に示されているように禅宗寺院として再考されたものであろう。

そしてその再興に当たったのが沙弥祐康である。

土岐頼雄は、当時の美濃国守護を兼ねた足利方の有力メンバー。

頼雄の子康行が実子のなかった頼康の養子となって土岐氏の家系を継いでいることからみても、土岐氏の中の有力庶家であった

ことがわかる。光定から数えて3代目にあたる。

南北朝期に美濃国大野郡内の揖斐荘(岐阜県揖斐郡揖斐川町)に拠点を移して以後揖斐氏を名乗り、出家して法名を祐康と称した。

祐康は再興された浄瑠璃寺に天下安泰、家門繁栄の祈祷を行わせると共に、境内に塔頭歛影庵を新しく建立。これに自ら後世の

菩提を弔わせようとした。その維持費として荏原郷内の安富左衛門三郎跡の所領を寄進。また再興した寺の開山として招いたのが

京都の大徳寺の月峯和尚である。その関係から同寺は以後大徳寺の末寺となる。

揖斐氏は土岐氏の有力庶家であるから、美濃本国での活動が中心であり、荏原郷支配の基本は土岐一族による代官支配であった

ろうと思われる。次の簡略系図参照。


参考までに竹内氏の調査された内容をここに補足しておきたい。


新張地頭 初代土岐光定について

土岐氏の入部について、{・・・光行は建長元年(1249)9月19日に亡くなっている。そのことから考えるに、息子の光定が悪党讃岐十郎を

捉えたこの前後ではなかろうか。}

光定については次の調査もされている。

○中祖三代光定(本光貞) 土岐五郎

 隠岐守 従五位下(これは悪党讃岐十郎追捕の功)  承久三年(1221)父光行隠棲後、総領となり鎌倉在勤。妻九代執権北条貞時の

 女 伊予国浮穴地方の地頭職を補任 ほかに美濃国の多数の地の地頭職を兼務 

 母 千葉介女

 没年 弘安四年(1281)八月一日  法名は興源寺殿宗岳貞光大居士

 墓  光善寺廃寺跡(瑞浪市)と興源寺(松山市東方町

京都御所造閑院殿雑掌に、土岐左衛門跡(土岐光行)が裏築地百九十二本のうち三本の寄進が建長二年三月一日(吾妻鑑)に見えている。

二代目 土岐頼貞について

この光定の葬儀は子息の土岐頼貞が挙行したと推定される。時に彼は十一歳であった。彼は総領として父の領地を統治した。

初代美濃守頼貞  光定子  歌人  弓馬上手   隠岐孫次郎

 美濃守護  伯耆守従五位下  土岐総領

 母 九代執権北条貞時の女

 妻 北条時頼の子七郎宗頼の女

三代目 土岐頼清について

正中元年(1324)の正中の変のとき、土岐頼貞は五十四歳、息子の頼清は推定三十五歳で、この時期地頭として伊予国浮穴郡へ来たと

思われる。

伊予国浮穴地方及び揖斐川の地頭職を兼務。

 没年 歴応二年(1339)二月二十二日   六十九歳

 法名 定林寺殿前伯州太守雲石在考(幸)大居士

 墓所 光善寺廃寺跡(瑞浪市)

四代目 土岐頼康について

大膳大輔土岐頼康の位牌は蔦村の大釈庵(現在の久住村)にあったということは、この地が土岐氏の地頭職の領地で、息子の康行あた

りが領民の教化のために源三位頼政崇拝の施策をとったことも推測できる。

「津吉邑有土岐氏城址 大膳大夫所居也」と「伊予古跡志」(野田長裕)。土岐氏のうち大膳大夫は、三代守護土岐頼康と四代守護土岐

康行二人の官職名であることから、頼康またはその代官の可能性が高い。


「荏原邑有新居純城 仁平三年(1153)以源公頼政射妖鳥賜上林、下林、津吉、恵原、浄瑠璃寺五邑」とある。

荏原邑有城曰徳川 天正中(1573-1591)土岐山城守所居也」と記されているが、土岐氏は天文二十一年(1552)に滅亡しているので、

この土岐山城守は土岐氏一族か又はその家臣の誰かと推定される。


伊予に残る土岐氏の系図
光行――光定――頼貞――頼清――頼康――康行――康政――持頼――政頼――頼政――頼高――政経

このうち光行から持頼にいたる八代は「美濃土岐系図」と一致しており、それに依拠したことは明らかであるが、政頼以降は独自のもの

である。これらの人々が伊予に移ってきた子孫であることはまず間違いない。このうち頼政は徳川城(尉の城)の城主、頼高は縫針城

(新張城)の城主とされ、政経の代に至って近世の今治藩士となったと系図は注記している。系図について詳しくは別紙参照。

室町時代以降の土岐氏
近世に書かれている「河野分限録」によると河野氏の外様の一人として徳川城主土岐山城守の名が見える。その内容は、次の通り。

……
(前略)……都合八十六騎御譜代家也。此外外様百六十七騎、合二百五十三騎。
土岐山城守    浮穴郡徳川城主   手勢五騎
森 伊豆守    同郡花山城主    手勢三騎
元亀三年迄ハ大野山城主の与騎也。
                                          (予章記 P.161
(
) この時代の一騎とは馬に乗る上級武士一名で、それに随伴する下級武士、足軽、雑兵は通常5名〜30名程度いた。

それで計算すると土岐山城守が参加した時の人数は30名から155名になる。地域の特徴から考えると、30〜50名が無難であろう。


さらに、年不祥八月二十八日付けの細川政元書状によれば、浮穴郡荏原久万山に対する「平岡競望」を退けるよう政元が河野通直に

申し遣わし、大野氏に対する協力を求めていたことが知られる。
五月十七日付の書状でも久万山の明神葛懸城の合戦における大野氏の軍功を賞し、宇都宮(大図城主)・森山両氏と相談して平岡氏

を退けるように求めている。ここに登場する平岡氏はこの頃から急速に台頭してきた一族であり、確かな出自は不明であるが伊予郡・

浮穴郡一帯に勢力を伸ばし始めていた。

                                                                           
戦国時代の土岐氏
室町時代の将軍足利義政が文明四年(1472)十一月二十二日付で、土岐深坂松寿丸に対して、美濃国・尾張国の所領と共に伊予国

荏原豪西方、久万山内青河等の所領において、段銭・臨時雑役・守護役・人夫伝馬役以下の諸役を免除するとの文書が残っている。

これにより、文明四年の時点で深坂松寿丸が荏原郷と久万山に地頭職を有していた事実を見ることができる。

「分領荏原林久万山等の事につき、度々申し候処、一段等閑の儀無く候の条、誠に謝し難く存知候、只今方々へ書状を以って申し候、

此時急度計略を廻らされ、早々本意を達し候様、調法に預かり候はば、弥祝着たるべく候、仍て太刀一腰兼光これを進ぜ候、

委曲尚等信西堂中さるべく候、恐々謹言

 十月十三日  成瀬(花押)

                     大野九郎次郎殿          」

これは土岐成瀬が、分領荏原・林・久万山等事について大野九郎次郎なる人物にあてて発した書状である。林(浮穴郡拝志郷で今の

東温市上林と下林あたり)が余分に含まれているが、この書状は地頭管理支配地を示す。内容は、「分領荏原・林・久万山等の事に

ついてこれまで度々言ってきましたが、気にかけていただきありがたいことです。ほかの方々にも手紙で連絡しています。大急ぎ私の

考えを聞いていただきますように願います。お礼に兼光作の太刀一振り進呈します。詳しいことは信西に伝えてあります。」(以上、大森訳)。


文面から判断すると、大野氏は土岐氏の意を受けて荏原・林・久万山地方の在地支配に当たっていた可能性が極めて高い。


土岐成瀬は応仁の乱では西軍に所属。美濃国を本拠とする土岐氏にとって伊予は遠く、大野氏の「合力」(協力)を頼まなければならない

ような事態があったようである。

平岡氏が「競望」したとされる荏原・久万山地域には上に見るように、土岐一族の所領が存在した。
文明四年(1472)十一月二十二日、将軍足利義政が土岐氏の主張を認めて、美濃・尾張国内の所領とともに伊予の荏原郷西方・久万山内

青河等地頭職を「守護使不入の地」として荷役免除を行っている。(湯築城と伊予の中世 P.56

しかし、伊予における土岐氏の権益は不安定だったようで、土岐氏は上浮穴郡の大野氏に対して荏原郷に関する合力を要請している。

平岡氏が荏原・久万山地域に進出して土岐氏の領主権を脅かしていたため、細川政元は大野、宇都宮、森山氏たちに平岡退治の協力

を求めたようである。

平岡氏は、戦国時代の後期に荏原地方を本拠にして有力国人領主に成長した一族である。
平岡氏の根拠とされる荏原城跡は新張城とわずか700メートルの距離である。土岐氏の勢力圏に
食い込む形で平岡氏が進出したものであろう。

永禄期の平岡房実
(ふさざね)は河野氏の奉行人奉書にしばしば名を連ねていることからして河野氏の重臣となっており、天正期の通倚(みちより)

も各地の合戦の際たえず河野氏の軍中にあって重要な役割を果たしている。かくして荏原地域は次第に平岡氏の支配地域に組み込まれて

いったと考えられる。

荏原から今治へ
戦国末期に何らかの事情で土岐氏は浮穴郡から野間(今治市)に移っていったようである。一方、今治市本町円浄寺には今治藩士としての

土岐氏の墓が代々残されており、寺そのものについても、政経が父祖の菩提を弔うため大西町に建立した円浄寺が今治藩の成立とともに

現在地に移されたものであるとの寺伝を有している。

伊予に土着した土岐一族の子孫は、戦国期には徳川城・縫針(中世時代における新張の書き方)城を拠点とする浮穴郡の国人領主に成長し、

その後、文献によれば、野間郡紺原の地をへて近世には今治藩士として今治城下へ移っていったようである。

新張城と関係のある土岐氏が現在松山に在住されているようである。荏原郷における土岐氏の系図もその方のお世話になった、と文献は

記しているらしい。今治からまた松山へ移住されたのだろうか。


土岐神社と諏訪神社の関係
「伊予の地域史を歩く」のP.188に「地元の古老の話によると、もとは新張の集落の中にある諏訪神社の境内にあったものを今の場所に移した」

とある。この古老は明治以前の誕生者であり、この伝えにはかなり信憑性がある。昭和25年(1950)頃まで土岐神社を武人の守として崇め、

新張地域の住民総出で子供たちによる相撲取りを行事として行っていた。また、土岐氏が武人の神である諏訪神社の分祀を願ったという

話も祖父から聞いたことがある。


<参考文献>
群書類従及び続群書類従
愛媛県中世城館跡(愛媛県教育委員会)
伊予の古城跡(伊予史談会)
日本城郭大系(新人物往来社)
伊予の古城跡(長山 源雄)
伊予温故録(宮脇通赫 名著出版)
伊予の地域史を歩く(山岡譲 青葉図書)
予章記・水里玄義(伊予史談会 青葉図書)
伊予河野氏と中世瀬戸内世界(川岡勉・西尾和美 愛媛新聞社)

上記の本は全て愛媛県立図書館蔵

城館跡と現状

1996年の段階では、堀はそのまま残っている。 2008年には左側(西側)は埋められて、
土砂置き場になっている。



大西町にある土岐頼政の墓
           浄瑠璃寺と八坂時の中間点にある墓。
 (ネット資料から)                いつごろ亡くなった武士のものだろうか。
http://user.shikoku.ne.jp/nibari1939/image/nibari-jo/image016.jpg 

次の2点は土岐頼政を祀った神社

http://user.shikoku.ne.jp/nibari1939/image/nibari-jo/image025.jpg

http://user.shikoku.ne.jp/nibari1939/image/tokugawa-sh.jpg

新張城にある土岐神社

津吉町にある徳川神社


土岐氏に関するその他の調査と五輪塔

(第七代)土岐光定( ? 〜1281)従五位下 隠岐守 
光定は光行の五男で、鎌倉幕府執権北条氏から妻を娶る。当然鎌倉とのつながりが強かったものと思われるが、記録には余り表れて

いない。その後、功あり伊予国浮穴郡地方(松山市・重信町・久万町)の地頭職となり、悪党讃岐十郎を搦めとった功績で隠岐守に任ぜられた。

法名は定光、号興源寺で松山市東方町の寺跡に光定の墓があると言われている。又、近くの土岐神社・徳川城は、四代目地頭、康行の

四代後裔にあたる頼政の史跡である。


土岐氏の墓とされる五輪の塔
(松山市津吉町)
伝光定供養塔  
(愛媛県松山市東方町興源寺跡)
http://user.shikoku.ne.jp/nibari1939/image/nibari-jo/image036.jpg http://user.shikoku.ne.jp/nibari1939/image/nibari-jo/image037.jpg


荏原における土岐氏関係図

http://user.shikoku.ne.jp/nibari1939/image/nibari-jo/image048.jpg



鎌倉時代の地方の豪族屋敷

http://user.shikoku.ne.jp/nibari1939/image/nibari-jo/image040.jpg





左図は鎌倉時代の地方における
豪族屋敷と される古い絵である。
居館としてまだ土塁を備えてないが、
櫓門を備え屋敷の周囲は狭いなが
らも堀で囲んでいる。
この規模を大きくしたものが新張城
に近かったのではないだろうか。



土岐氏について
土岐氏は鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。本姓は源氏。清和天皇を祖とする清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲み、

美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた。室町時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の

三ヶ国の守護大名となった。
土岐氏は美濃国のみならず常陸、上総など関東に点在した他、美濃国内には明智氏、土井氏、金森氏など多くの庶流が輩出された。


家紋は水色桔梗紋で、白黒紋でなく彩色紋として知られる。土岐光衡が戦争で桔梗花を兜に挟んで戦ったのを記念して、家紋とした

のが始まりである。「土岐桔梗」と呼ばれている。

土岐氏の家紋
http://user.shikoku.ne.jp/nibari1939/image/nibari-jo/image042.gif


                                              
「中世の地域権力と西国社会」における川岡勉氏の見解
伊予における土岐氏(揖斐頼雄・三代守護土岐頼康弟で子の康行は頼康の養子となり四代守護となる)は、単なる地頭としては想像以上に

広範囲な所領を維持していたように思われます。伊予河野氏庶流が美濃へ移住するにあたり、伊予の所領と美濃土岐氏の所領を替地したのか、

何らかの理由によって伊予の土岐揖斐氏が伊予の所領を拡大したように思われます。

替地というのは、将軍家の意向がないと不可能だそうですが、椿洞河野氏(伊予守河野通村)は二十七町歩所有し、1370年前後に美濃で

後醍醐天皇の皇子無文元選(むもんげんせん)禅師のもと了義寺以下四ヶ寺も建立し、これは現存しています。延文三年(1358)沙弥祐康

(揖斐頼雄)荏原郷内浄瑠璃寺を修造し、禅寺に改め月峰和尚に寄進する(大徳寺文書)など、また土岐方から河野通直(通堯)への書状

(臼杵稲葉河野文書)もあり、想像以上に河野氏と土岐氏はコミュニケーションがあったやに思われます。

稲葉氏も発祥の地は土岐揖斐氏の揖斐川町です。伊予河野氏庶流の所領と引換えに美濃の揖斐氏の領地を交換したとか美濃への移住を

保障したというようなことは、素人考えでしょうか?
(以上、原文のまま)

参考資料1
土岐氏系図

    光衡
   
    光行
   
    光定
   
    頼貞
    ┣━━━━━━┓
    頼清       頼遠
    ┣━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
    頼康       頼雄      直氏      頼忠
    ├──┐   ┣━━┓            
    康行 満貞  康行 満貞   詮直     頼益
                     
    康政                 持益
                     ┠──┐
    持頼政頼              持兼 成頼
                        ┣━━┳━━┓━━┓
    政康頼政              亀寿丸 政房 定頼 元頼
                         ┣━━┳━━┳━━┳━━┓
        頼高               頼武 頼芸  治頼 光親  頼香
                        ┣━━┳━━┓
        政経              頼純 頼栄 頼次 頼元 
                                  
                                 持益
(注)
  朱字の「持頼」以降は伊予の国の地頭に任命され、伊予に移ってきた可能性が高い。



関係事項歴史年表

西 暦

主な出来事

荏原と土岐氏の関係事項

1192

1274


1281

1305

1333

1338

1359

1449

1467

1472

1477

1478

1572

1585

1600

1603

鎌倉幕府成立

文永の役
一遍上人時宗を開く

弘安の役



鎌倉幕府滅亡

室町幕府成立



足利義政将軍職補任

応仁の乱勃発



応仁の乱終息

戦国時代となる

足利幕府滅亡

豊臣秀吉関白職拝命



徳川家康将軍に補任








土岐定親討死





この頃浄瑠璃時再興





足利義政が土岐深坂松寿丸に文書発給









江原町筋及び興源寺が乱にて焼ける



参考資料2(伊予の地域史を歩く)から

久谷地区米の生産高

慶安元年 元禄十三年 天保五年
中野村 210石3斗 210石2斗 210石
東方村

1,118石6斗

1,118石6斗 1,144石4斗
恵原町村 725石7斗 725石7斗 740石9斗
上野村 689石4斗 689石4斗 783石6斗
西野村 216石2斗 216石2斗 247石
津吉村 不明 788石4斗 845石1斗
小村 不明 不明 53石1斗
浄瑠璃村 494石4斗 494石9斗 497石
久谷村 580石4斗 580石4斗

582石6斗

窪野村 301石 301石 301石
升以下の単位は切捨て


「伊予二名集(曽我鍛著 愛媛青年処女協会 大正十一年一月二十七日刊)によれば、浮穴郡は「郷名、井門、拝志、荏原、出部の

九十九か村 高三万五千六百五十六石六斗1升(宝暦十二年五月晦」とある。

これから土岐氏所領の大きさはこれまでの文献等から推測すると、ほぼ上図のようになる。室町時代の米の収穫は宝暦に比べると

かなり悪くほぼ6割程度として計算すると、三千四百三十六貫。石高に直すとほぼ一万三千七百石となる(私の勝手な想像)。
領地はまずまずとしても江戸時代の小大名程度(新谷藩、小松藩)でしかない。

しかし鎌倉・室町時代としては相当な領地であったと思われる。なお、鎌倉後期から室町時代にかけて久万郷はどの程度の所領が

あったのか不明なのでここには記してない。

今に残る新張城館跡

        

大手門付近                                             南側かき揚げ土塁と領主を祀っている土岐神社

      

敷地                                               原寸を残す東側堀

        

埋め立てられた南西堀(半分以下になって                                 同様に埋められた西側堀。1/15程度の幅しかない

いる                          

    

段丘利用の北側(高さ約3m                             南側東方面の堀もほぼ埋め立てられて田んぼになっている。


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