久谷地区の城跡

久谷の古城跡一図 坂本地区古城跡(坂本基幹センター前)

 

ここでは、荏原城と地頭の居館跡である通称新張城を除いて記述する。ほぼすべては城というよりも番城、

城塞、砦のほうが正しい。


「葛掛城址」

久谷町の奥のほうに「城(しろ)の台」と呼ばれる山があり、そこは「葛掛(かつらかけ)城址」言われている。

城というよりも砦が正しいのだろうが、いわれでは、天正年間(15731592)、明神清兵衛門という主が三坂方面を

見張っていたらしい。久万高原町や高知からいつ来るともしれぬ攻撃や不意打ちに備えていたようだ。

(予陽郡俚諺集 P.132)

 

城郭跡として計測されたとき、その広さは南北15m、東西7mと極めて小規模なものである。

 

伝説では、秀吉の四国征伐の際、この砦は放置され、鎧、兜、刀剣が打ち捨てられていたのを住民が集めて、葛掛神社

に奉納。その後、子供たちが神社に集まって、お宮にある武具を着て武者遊びをしたらしい。

しかし、火災や盗難でほとんどの武具は散逸したようである。

 

勝山城址」

久谷地区を突き抜ける県道194号線からは三坂峠の下にお椀を伏せた感じのやまが見える。そこが「勝山城址」である。

ここも三坂峠を下って来る敵の見張りとして機能していたことだろう。海抜335メートル。

 

久谷と窪野に分かれる地点でもある「出口(いでぐち)橋」の手前に坂本基幹センター(市役所坂本出張所)がある。

その前を通って少しのところ、民家の入り口に「立林大膳上(だいぜんのかみ)」という墓がある。これがどうも

勝山城主だったようであるが、なぜここに墓があるのか不明である。この付近に寺でもあったのだろうか。

それともここあたりで戦死したのだろうか。

また光田(江戸時代は満田)家に残る文書には「立林雅楽守越智知宣(たてばやしうたのかみとものぶ)」とある。

予陽郡俚諺集 P.132には「天正中立林雅楽頭所居也(天正時代のたてばやしうたのかみの居住跡である)」とある。

 

「真城城址」

伝説では、森讃岐守という人物がこの砦を守っていたらしい。海抜537メートル。

昔の調査では、山頂の東西に堀切があったそうなので、砦跡というのはほぼ間違いない。

 

昭和9年の大旱魃の際、この頂上で「二夜三日」の雨乞いをしたという。


左の高い山の手前が真城。右の三角形に見えるのが勝山城跡。 何もない山のような葛掛砦跡(田中様提供)
勝山城跡を東側から望む。 真城砦跡(田中様提供)

 

「尉之城址」

これは地頭(土岐氏)の城館」で説明したように、戦でいざとなった場合ここに立てこもる。戦で使われたという記録も

伝説もない。予陽郡俚諺集 P.132では「土岐氏城墟」とある。

 

不思議なのはこの山の名前である。名前が存在しない。久谷の方々はみな「尉之城」という。

そこでふと考えた。

 

律令制における武士の官位は、701年(大宝元年)藤原不比等らによる編纂によって大宝律令が成立。720年に撰修が

中断していた新律令が施行されることとなった。これが養老律令である。その中に、日本の古来の役職として武人の役

(兵衛府と衛門府)では、将(かみ)(すけ)、尉(じょう)がある。

 

従六位下 の官位として、和泉守、伊賀守、志摩守、伊豆守、飛騨守、隠岐守、淡路守、壱岐守、対馬守、左衛門大尉

右衛門大尉(ともに衛門府)、主馬首、勘解由判官がある。

正七位上 左衛門少尉右衛門少尉(ともに衛門府)
正七位下 左兵衛大尉右兵衛大尉(兵衛府)
従七位上 左兵衛少尉右兵衛少尉(兵衛府)

もしかして、新張城の主だった土岐氏は代々、左右大尉、または左右少尉を名乗っていたのではないだろうか。

「土岐山城守」というのが「河野分限録」にあるが、戦国時代のことで、鎌倉時代後期または室町時代に左兵衛少尉程度

の官位があって、その砦を住民たちが「尉之城」と呼んで今に至っているのではないかと思う次第である。

 

「大友山城跡」

まず、名前の読み方であるが、現在ほとんどの方が「おおともやま」という。しかし、古文書には「大戸」「大堂」

「大砥」などの文字がみられ、筆者などもいまだに「おおどさん」とよぶ。

地区の年配の方は、みな「おおどさん」である。

しかし、いつごろ漢字の大友が「おおともやま」の言い方になったのかは不明。戦後しばらくしてからではないか。

地元に荏原小学校校歌の2番目に「山の背やさしき 大友の」があり、読み方も「おおとも」である。ただし、この校歌は

戦後作成されたもので、なぜ「おおとも」と呼ぶに至ったのか、作詞家に聞いてみたいが、すでに他界されている。

 

さて、この「大友山城」は荏原城主の平岡氏に所属し、戦のときの本城としての規模を備えている。

筆者も子供のころ登って、石垣と広場があったのを覚えている。今はそこにたどりつくのは雑草や木々が

邪魔をして不可能である。「尉の城」と並んで久万高原町方面からの進入にがっちり備えていたのではない

だろうか。

 

また、ここは久万高原町方面への見張りというよりも、その位置から考えると松山を望む道後平野に気を配っていた

ようにも思われる。


尉之城跡遠望。中央の頂上。 麓の徳川神社からしばらく登った場所にある案内碑。
尉之城から久谷の荏原地区を見る。 大友山城跡は前方の山の右側頂上付近。
大友山中腹から道後平野を望む。 昭和初期に刊行された本の地図。葛掛城が抜けている。


「新張城址」

 トップページの「地頭(土岐氏)の城館」に詳述。

「荏原城跡」

  トップページの「戦国大名(平岡氏)の城」に詳述。

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