坂本屋

明治末期から大正初期に建築された。三坂峠を下った最初のお宿で、往時は宿泊や休憩客でにぎわった。

2004年に修復され、3月から11月までの土・日曜日に地元の有志による接待がある
土間、囲炉裏、かまど、五右衛門ぶろなどがあり、昔をしのぶことができる。
近くには遍路墓も点在する。
網掛け石

昔、三坂峠への道の障害になっていた二つの巨石を、通りがかった弘法大師がかずら網で運び出そうとしたが、綱をつるした棒が折れ、1つは御坂側の底に、1つはそのままここに残ったという伝説がある。
石にははっきりと網目模様がついている。
勝山(天満宮)神社 

菅原道真公が888年に讃岐(香川県)の官府に赴任するとき、たまたま宇摩郡(新居浜市)に宿泊された。
942年、太宰府から道真公の神霊を迎えてお祀りしたのが始まりとされる。
お宮を立てたのはずっと後、道後城主だった河野一族で、砦も兼ねていたといわれている。


四里塚

「松山札辻より四里」と石に刻み込まれている。松山市西堀端の札辻から発する土佐街道の四里(約16km)の地点を示す。
2000年に建てられたものだが、江戸時代の古い道標はその左に見える。
一遍上人閑室跡 

鎌倉時代の「時宗」の開祖である一遍上人は、1239年に河野通広の第二子として道後に生まれたが、33歳で久谷の窪寺に閑室を構え、3年間修業したと伝わっている。
窪寺、閑室、念仏堂などがあったと考えられる場所に石碑が建てられ、上人の修業をしのぶことができる。
正八幡神社

延久2年(1070年)石清水正八幡神社からご神霊を迎えて創建された。河野氏が1281年蒙古襲来の戦勝を祈願し、戦では目覚ましい働きができたため神殿を新築しなおしたといわれる。
しめ縄用の石材の文字は「坂の上の雲」で有名な秋山好古大将の書。
瓦葺の鳥居や樹齢700年といわれる松山市内最大のクスノキがある。
子規の句碑

「旅人のうた登り行く若葉かな」
正岡子規は15歳の時と22歳の時にここを訪れている。
新緑の中、白衣のお遍路さんが鈴の音を響かせ、ご詠歌を歌いながら三坂峠や浄瑠璃寺を目指していたのだろう。その風景を詠んだものである。
葛掛五社神社

2007年創建1300年を迎えた古い神社。
役小角(えんのおつぬ)という方がこの地を切り開き、住民に法をもたらすとともに、一言大神(ひとことぬしおおかみ)の神霊をお迎えして守り神とした。
河野一族、葛城の城主が代々あがめた。
お宮の森は種々の大木が群生していて貴重である。
蛇の釜

御坂川が中央構造線と呼ばれる断層と出合う少し上の上流にある。
堆積岩の砂岩の部分が水に削られて釜のようになっており、そこにはオスとメス2匹の蛇が住んでいたと伝わる。
案内標識もなく、少し探しにくい。
山口霊神

享保17年
(1732年)の大飢饉の際、久万山の農民が松山藩に対して起こした一揆を題材にした講談に由来する。
隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)という狸の親分が八百八狸を率いて活躍する物語。
狸たちはこの地に封じ込められたといわれている。
久谷里山劇場 大黒座

大正時代(1912-1926)に建てられた木造二階建てで、最初は酒造りの土蔵だった。
戦後芝居、園芸、映画館として大衆文化の中心的な役割を果たした。
1963年に閉鎖。
学生の論文を機に2006年に改修し、以降農村歌舞伎、寄せ、コンサートなど多彩な運営が行われ活気を取り戻している。
四国霊場46番札所 浄瑠璃寺

708年に創建。御本尊は僧行基が刻んだ薬師如来。
寺号は薬師如来の別名に由来する。
本堂は1785年に再建された。当時の住職である堯音師は浄財を募り、久万の岩屋寺から松山に至る8つの橋を造った。
樹齢1000年を超すイブキビャクシンや子規の句碑「永き日や衛門三郎浄瑠璃寺」などが境内にある。
四国霊場47番 八坂寺

701年の創建。伽藍を建てるにあたり八か所の坂道を切り抜いて道をつけたことが寺号の由来となっている。
御本尊は鎌倉時代の阿弥陀如来で、県の重要文化財に指定されている。
お経を納める宝筺印塔と六重の塔があり、ともに鎌倉時代の作品。
土岐氏の居館跡

美濃国(岐阜県)の有力な地頭であった土岐氏の直系一族が鎌倉時代の中期、荏原の里に地頭として西遷。居館として建てたのが今に残る「新張城」である。
北側は約3mの自然の崖を防御とし、東南西は堀に囲まれている。南と西側の堀は埋められ、見る影もないが東側(写真)にのみ往時のものが残る。
三里塚

松山札辻から三里(12km)の地点を示す道標。
 
往時ここが土佐街道であったことを物語る。
江戸時代の道標は見あたらない
文殊院

701年の創建。御本尊は地蔵菩薩。

平安時代、この地の大地主であった衛門三郎は、訪れた弘法大師への布施を何度も拒否、鉄鉢をたたき割ったため、その翌日から八人の子を相次いで失った。
三郎は大罪を悔い、大師に会って謝罪をしようと四国を巡る。これが四国遍路の始まりといわれている。
市指定八塚群集古墳群

四国遍路の開祖といわれる衛門三郎の八人の子供を弔った墓といわれる八基の古墳がある。塚には小祠と石地蔵が祀られている。
円墳と方墳に分かれる。
石室は未調査となっているが、古墳時代の終末時に作られたもので農業祭祀の祭事墳とも考えられている。詳細ははっきりしない。

大宮八幡神社

参道入口にある「大宮八幡神社」の文字は陸軍大将秋山好古による。
境内には巨大なイブキビャクシンがあり、金平(きんぺ い)狸が住んでいたという。
その狸は大変頭のいい学者狸で、この神社の宮司のお使いや地元の人にも親切を尽くしたといわれている。
子連れの狛犬がほほえましい。
国指定重要文化財 渡部家

慶応2年(1866年)に建築された庄屋屋敷。堂々たる門構えを一歩入ると母屋の瓦屋根には藩をはばかってつけた萱葺きが一部にあり、越屋根という。
詳しくは「庄屋屋敷跡」を参照してください。
土日には一般公開されている。
札始大師堂

四国遍路の開祖といわれる衛門三郎が弘法大師の後を追って最初に訪ねた場所。ここで大師の帰来を待った が、現れないため三郎は紙片に住所姓名などを書いて堂に貼り付けたといわれている。
そのためこの庵を「衛門三郎札始所」となったといういわれが残っている。
昔の遍路道

現在は簡易舗装されているが
、道幅など江戸時代のままのものが残っている。浄瑠璃寺の100m東側にあり、昭和の時代もここを通って遍路が行き交いした。

荏原城跡

河野18将の筆頭たる平岡氏の居城で、写真で見るように周囲は堀で囲まれている。道幅拡張のため本来の堀の半分くらいしかない。
内部(東西60m・南北70m)は戦後の農地化改革により畑地として開拓された

1600年の関ヶ原の戦いに際して、西軍の毛利方に味方して松山城主加藤氏に戦いを挑んだ際に城は滅亡した。
 
恵原町土用部池下

 
南国市にある四国で一番古い道標

四国最古の遍路道標

四国で二番めに古い遍路道標。貞享二年(1685)
三月吉日に建立のもの。
しかし、姿かたちは土用部池のほうがはるかに
優れている。

ちなみに一番古いものは、南国市第29番札所
国分寺の横にあるもので、製作は貞享二年二月
二十日。
恵原の道標より一ヶ月早く作られている。
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