石碑とは、人が何らかの目的をもって銘文を刻んで建立した石の総称。「いしぶみ」「ともいう。句碑は

文字通り俳句を刻み付けた石碑のこと。(Wikipediaから)
 

ここ久谷地区では句碑の数は多くない。そこで一応石碑も含めて紹介したい。地図を最後に載せているので、

参考にしてください。

 

小村町藤田家の庭

「お手播の松  枝張りはるや   御代の春」 

藤田隆三さんの父で閑子(かんし)の号をもつ方の作品。

昭和41年4月17日、第17回植樹祭が久谷町大久保で行われた記念に藤田閑子が詠んだもの。藤田閑子の

名は日本全国俳人叢書の「初音」にも載っていて、それ
なりに有名な俳人である。師匠は富安風生(とみやすふうせい)。

 

小村分館南側

「松に高くある  早春の風を聞く」

森 薫花壇作。昭和37年2月に建立。

本名は福次郎。明治24年、旧伊予郡余土村西余土(現代の松山市)に生まれ。句作に親しみはじめたのは、同41年から。

当初は、河東碧梧桐門下として、地元の
南山会にも参加している。やがて、縁あって森田雷死久(らいしきゅう)に師事、その直後

の指導をうける。河東碧悟桐や萩原井泉水(せいせんすい)に指導を受け、のちに富安風生(とみやすふうせい)を師と仰ぐ。

大正15年「ホトトギス」に投句。昭和7年「糸瓜」を創刊。昭和44年「愛媛県教育文化賞受賞」。昭和51年3月6日、84歳で没。

小村は俳句の盛んな場所であったので、時々出向いて指導していた機縁で、この句碑が建立された。

  


上野町宮脇家


「吾が庵は  榎の浮根  石蕗の花」   (わがいおりは えのきのうきね つわのはな)

宮脇茲雄(みやわきこれお)の作品。昔、荏原村の村長を経験された方で、その息子の宮脇(すすむ)さんは長年伊予鉄の社長として功績の

あった人である。
この句碑はその宮脇家の庭にある。句碑の周りには今もツワブキが生い茂っている。

宮脇茲雄氏は俳句を愛し、榎村(えそん)と号し、村内の俳人たちと上野村にゆかりのあるお狸さんにちなんで「金平会」をたちあげた。

仲間の俳人には、渡部箕田(わたなべきでん)、森田雷久死、山口百雷(やまぐちひゃくらい)吉井龍城(よしいりゅうじょう)らがいた。

 

中野町素鵞神社境内

「鎮守の やしろは成りて 郷の春」

「うつる世に 昔のままの 祭りかな」

「産土の神とし崇め 里人のいつき祀れる 宮ぞかがやく」

南月の作である。

これは珍しく句碑ではなく、神社再建のお金を出した碑の裏に書かれている。この歌の作者を調べてみたが、今のところ手がかりがつかめない。



東方町大連寺境内

「山川草木悉有仏性」

(山川ことごとく仏性あり)

「金平会」の一員である吉井龍城の住んでいた寺門を入るとすぐ目につく大きな石碑である。

 河東碧悟桐はあまりに有名な俳人。明治43年(1910)8月に大連寺に宿泊し、荏原の俳句仲間とともに近くの大友山に登った時に作ったもの。

碧悟桐は荏原の金平会同人とこの寺で句作をしたり、大友山に登ったり、近くの寺を訪れたりしながら句作とともに指導もした。

   

 


「大うねり小うねり松のしずけさ」

吉井龍城の作。龍城は村史によれば、松山市久枝村に農家の三男として誕生。11歳で得度して繁多寺で僧籍に入り、17歳の時に大連寺の

住職となった。

大正8年、理想を求めて大本教に入信したが、龍城の影響で大本教に宗旨替えする人が多かったようである。

昭和11年、紆余曲折を経て再び大連寺に戻り、昭和32年82歳で没す。

「この嶋の鎮守は女天桃の花」という句も残している。「天桃」とはローズアップルという赤く大きな実のあるチョンプー一種らしい。

 

浄瑠璃町八坂寺境内

「お遍路の 誰もが持てる 不仕合」

白象作。この方は東温市下林の出身。本山金剛峯寺第406世座主となり、のち高野山真言宗管長に就任した森寛紹(もりあきひろ)の作である。

高浜虚子、富安風生(とみやすふうせい)の知遇を得て、昭和24年「ホトトギス」同人、27年には「若葉」同人になり、号は白象。彼の作品は浄土寺

にも「お遍路や 杖を大師とたのみ
つつ」の句が残っている。

 

詩人で砥部町の名誉町民で名高い、坂村真民の歌も祀られている。ここには、また別の石碑の裏に多くの句作が刻まれている。

  

 

  

 

浄瑠璃町浄瑠璃寺境内

「永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺」

県道194号線から見てすぐ、石段前の左側に句碑がある。

「俳句の里松山」に次のような説明がある。「昭和20年秋、浄瑠璃寺住職岡田章敬師の建立。松山戦後の句碑第一号。俳句稿「寒山落木」

明治29年春の部に、この句が
ある。「永き日」が「春」の季語。

衛門三郎は御大師様、石手寺や文殊院と関係の深い、久谷では誰一人しらないもののない強欲だった人。句碑は地元の相原熊太郎が

柳原極堂に揮毫をお願いしたもので、
石材は、旧荏原村の古墳の一部だったとも言われる。この句は子規が東京で郷里を偲んでの句だ

といわれている。

 

 

浄瑠璃町坂本小学校

「久谷村をみどりにそむる時をしも

         たのしみにして杉うえにけり」     侍従入江相政 謹書

昭和41417日、昭和天皇、香淳皇后両陛下ご臨席のもと、温泉郡久谷村大久保(現:松山市久谷町大久保)にて「第17回全国植樹祭」が

開催された。
当日は急に冷え込み霧雨まじりの天候となったが、行事のスローガン「戦争で荒れはてた山河を緑でいっぱいに」という願いを込め

て、約13,000人の参加者とともに両陛下に
よるスギ苗の植樹が行われた。

その時に詠まれた句が
風つめたく雨ふる中に杉苗を人びととともにうゑてけるかな」である。

侍従入江相政は、1905年(明治38年)生まれで、歌に優れ、随筆家でもあった。藤原定家の血を引く家系で、天皇の侍従長となる。81歳で他界。

この方が天皇に代わって書いた筆跡である。なお、この句は「久谷ふれあい林」に同じものがある。

 

 

窪野町正八幡神社

「村人に 永久の山なみ 冬構」 朱萸子(しゅゆし)

三好祝二が本名。句碑の裏側に簡単に経歴書きしてある。

それによると、明治32年、相原九一郎の次男として誕生。坂本小学校、松山中学、松山一高、東京大学医学博士。上京中、三好家を継ぐ。

昭和20年帰村し郷村医
開業。県立中央病院副院長を併務のかたわら句を好み、朱萸子を号す、と村史にある。

上の句は俳誌「ホトトギス」に初入選のもの。63歳を持って他界。

 

久谷町大久保        「久谷ふれあい林」

「久谷村をみどりにそむる時をしも

         たのしみにして杉うえにけり」     侍従入江相政 謹書

昭和25年に山梨県で始まった「全国植樹祭」は、昭和41年昭和天皇、皇后両陛下をお迎えして、第17回全国植樹祭として開催された。

「久谷ふれあい林」は、植樹祭会場跡地で
あり、今でも両陛下がお手植えされたスギ、ヒノキが育っている。また、国道沿いには植樹祭に

ちなみ天皇陛下がお作りになられたお歌が記念碑として残っております。
実に見事な堂々とした石碑になっている。

  


       

 車が10台以上おける開けた場所にある。           3列の中央に位置する。        列の左側                列の右側

 

久谷町丹波

「旅人の 歌上がりゆく 若葉哉」 子規

お遍路さんが三坂峠目指して歩く姿を詠んだ子規が15歳の時、明治25年の作である。

ここにいう歌はご詠歌のことだろう。今と変わらぬ装束で数人の遍路の歩いている姿が想像できる。のんびりした、心温まる句である。

 

 

久谷町三坂峠

「秋風あるいてもあるいても」  山頭火

子規の碑は漢詩になっている。下の漢詩参照。

     

44番大宝寺訪問の後詠まれた句のようである。その直後に詠んだ句は「なむあみだぶつなむあみだぶつみあかしまたたく」

人生のはかなさがしみじみ感じられる。

子規は明治11年、12歳の時に土屋久明から漢詩を学んでいる。明治14年15歳のとき、初めて久万や岩屋寺方面へ旅行した。

その時に詠んだのが下の漢詩である。(七言律詩を三行にまとめている)は次の通り。(見慣れない漢字が多く、意味は山野先生の

「久谷界隈はええとこぞなもし」を参考に勝手に訳してみた(間違いは大目に見て
ください)。3行目の
独停竹」の次に来る漢字は

「きょう」と読む語で、竹冠の下に「たくみへん」と「ふしんづくり」
の文字で、ネットでは表記されない可能性がある。
 

三坂望松山城  明治十四年

欹危小径破晨行 (朝まだ早きに傾斜のきつい小路をたどって行く

松樹粛森絶世情 (森の木々に囲まれ世間とは異なる静けさ

独停竹回首望 (竹で作った杖をついて首を回して見渡すと

白雲湧処是松城 (白雲がわくところこれぞ松山城なり)

「スキー発祥の地」

記念碑の裏には「大正14年新潟県出身旧制松山高校生内藤進氏により四国で初めて此の地にスキーのシュプールが印され、北斜面を

利用して県道端スキー場と名付ける。」
とある。また、昭和9年(1934年)12月の『大朝新聞』には『展げる雪の舞台 スキーファンを招く直営バス』

という見出しで「白銀に躍るスキーの季節が近づいた。松山地方唯一の
スキーツァーとされているのはやはり三坂峠である。」と始まり、スキーファン

に限り三坂
峠までのバス代を2割引にすることを報じている。


個人の顕彰碑とその他の句碑

「雪の中 一服咲いた梅の花」(利休)
東方町の民家にある句碑。
この利休という俳人は千利休かどうか
まだ確かめてない。
それ以外だとちょっと思い当たらない。
伊予鉄丹波バス停からほぼ500m
登ったところにある、個人顕彰碑。
ある高校生が片道約15kmを毎日通い
続け、無欠席・無遅刻により卒業時に
恩師から「陽も月もふみて 三里の山坂
を唯一筋に 通い勤めし」と感状をも
らったのを記念して、家族が建てた碑。
感動的な話である。

 

所在地図

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