久谷の街道
久谷地区の旧街道は残念ながら「久谷村史」にも「ふるさと荏原」にも出てないが、昭和62年発行の「ふるさと荏原」にわずか
だが掲載されている。
昔の街道にはいく先(目的地)の名前を付けて、「土佐街道」とか「讃岐街道」とか呼ぶ。
大体決まっていた。
久谷地区(だけではないと思う)では一合道、二合道、三合道という言い方があり、一合はわずか18cm。今も残る三合道は
たったの54cmしか幅がない。人が一人通れるだけである。天秤棒を担いでUターンするときに棒が左右いずれかでつっかえする
ような石垣を作ることは禁止されていた。
さて、久谷では南北を中心に走る「土佐(久万)街道」と「久米街道」の二本がメイン。その他に「久万近道」と「讃岐(金毘羅)街道
がほぼ東西に久谷を横切っていた。
元和2年(1616)、徳川家康が没すると、家康の遺訓といわれる『家康百箇条』が示され、このなかに江戸時代の道路政策
や道路の種類・等級に関するものが見える。それによると、道幅は大街道が約11mでこれは、多分、東海道のみだろう。
小街道が5.4mで日光道、中山道、奥州街道、水戸街道など主要道路。次いで、「横道」『馬道』とされるものが2間幅(3.8m)で、
「土佐街道」や「久米街道」がこれにあたる。
道といわれ90cm以下となっている。
記憶をたどったり資料を探したりしながら、調べたことを後年のため記録しておきたい。間違いがあればぜひご指摘願います。
なお、作成に当たっては久谷町在住の郷土にたいへん詳しい田中睛様から、数多くの助言・指導をいただきました。
ここに厚くお礼申し上げます。
土佐(久万)街道
この街道がいつごろ出来上がったかは定かでない。上記に記したように江戸幕府の命により、松山藩でも街道整備を行った。
1740年には木製だった一里塚を石製のものに作り替えている。
この街道は松山市西堀端にある札の辻を起点として、立花(33号線の西側の道路)を経由して森松に至る。終点はもちろん高知市
である。
この街道は往時1日に4〜500人の往来があったようで、そのため三坂峠、出口橋付近、恵原町のほぼ中央には旅館も数軒存在
し、にぎやかだったようだ。
しかし、窪野の丹波から峠に向かう坂道は急峻で、種田山頭火は「秋風あるいてもあるいても三坂峠」とややつらい表現だが、一方
正岡子規は「旅人のうた登り行く若葉かな」とかなり浪漫的な表現をしている。
森松には札の辻2里があり、そこで大洲街道と分岐する。この分岐地点から久谷における土佐(久万)街道をたどってみたい。
地図上の番号は道路周辺の史跡、松山市やマスコミに里山散策としてとりあげられた場所を示している。
(地図の番号に合わせて、写真番号と照合願います。)
松山市森松から始めています。 | 1 むこう側は大洲街道。手前が土佐街道。 | 1 二里塚(右の画像から少し行ったところ)。 |
2 県道194号線から見た旧土佐街道。 | 3 直進するとこの交差点。ここで右折。 | 4 石段が土佐街道跡。 |
重信川の南から上野一木(いちぎ)まで。 | 5 久谷側の渡河地点から対岸を見る。 | 伊予市中川原に残る川渡しの場所跡。 土佐街道にもこんなのがあればいい のだが。 |
5A 川の土手から見る久谷側の旧街道。 | 6 伊予・川内線を渡ると「坂の上の雲」に ちなんだ道路標識がある。このあたりを 広瀬という。 |
7 八百八狸で有名な「金平たぬき」。頭がよく 人に愛された。今も参拝者に頭をなでられ ている。 |
8 左が土佐街道。右は昔のままの遍路道。 石碑が2本あり、前のほうは「左松山道」 となっている。 |
9 少し離れた場所だが、「札始大師堂」として 地元ではよく知られている。写真の最後に 説明文があります。 |
恵原の半ばから久谷中学校の少し上まで。 |
10 松山市指定文化財「八塚群集古墳」。 伝承では、衛門三郎の子供たちの墓 になっている。 |
11 恵原の町並み。明治の終わりころまで 旅館、履物店、鍛冶屋、石屋、着物店、 雑貨店、散髪屋、医院、精米屋などが 軒を連ねていた。 戦後の昭和時代にもその一部が残って いた。 |
12 衛門三郎ゆかりの文殊院。 四国巡礼の発祥地ともされている。 |
13 文殊院から300m南にある三里塚。 | 14 久谷地区では一番美しい絵馬が残って いる諏訪神社。久谷地区の絵馬はなぜか 赤穂浪士ものがほとんど。 |
15 四国地方では最も古い遍路道標で、 貞享4年(1685)年の作成。 |
16 47番札所、八坂寺。 阿弥陀如来が祀られている。 |
17 国指定重要文化財「渡部邸」。 東方村の庄屋屋敷。 |
18 荏原城跡。「平岡城、棚居城」などの 呼び方がある。市指定文化財で、 14世紀半ばに築城された。 |
19 新張城とも呼ばれているが、13世紀半 ころに築かれた。地頭である土岐氏の 居館跡。東南に堀、南に土塁が残って いる。 |
20 月見大師堂。 説明は画像の最後にあります。 |
20A 月見大師堂の西側、旧土佐街道に 地元の有志が作った野菜の直販市。 市内からの常連客が多い。 |
浄瑠璃寺から坂本支所付近まで。 | 21 46番札所、浄瑠璃寺。 ここには子規の句碑や平岡城主の墓、 戦没者の鎮魂碑などがある。 寺の西側には古代蓮が育てられている。 |
22 菖蒲が花が有志に栽培され、春には 美しい姿を見せる。 |
23 大黒座。元は酒つくりの土蔵だったものを 2006年に改修し、里山劇場として多くの 行事やイベントを行っている。 |
23 左の建物が坂本支所。この付近は両側 に多くの旅館や店などが 上野屋、橋岡屋門屋、黒田屋など屋号を のある家が多くあった。 |
土佐街道の左は久谷町。名所を2つ紹介 しておく。 |
24 伊予八百八狸の本場。山口霊神。伊予狸 ボスである刑部狸が祀られ、毎年行事が 開催されている。 |
25 蛇の窯、と呼ばれている。数百万年かけて 川水に削り取られた洞窟が存在する。 |
26 「網掛け石」と呼ばれ、弘法大師との ゆかり話が残っている。後の伝承を参照。 |
27 伊予鉄バスの終点丹波バス停。左側の 森に句碑や札の辻がある。右の道路が 土佐街道。左折すると、一遍上人が3年間 修業した場所や彼岸花の畑に通じる。 |
28 正岡子規の句「旅人のうた登り行く 若葉かな」の句碑。 |
28 四里塚。 |
29 秋の彼岸花の畑。 | 30 一遍上人閑居地。 左のお花畑のすぐ上にある。 |
丹波バス停約1km程度から三坂峠まで。 |
31 丹波バス停から1kmほど坂を上った 場所。 ここを左折すると、網掛け石のところ に出る。 |
32 左の道路標識から1.6km上ると、昔の 遍路宿「坂本屋」に着く。久谷地区の 最南端の家屋。 NHKの「歩く、歩く」の舞台になり、テレビ や新聞などマスコミでよく取り上げられ ている。 |
33 三坂峠にある土佐街道への道路 標識。左側は国道33号線。 |
札始大師堂について
伝承によれば、弘法大師の後を追って旅に出た衛門三郎が、荏原郷を出て小村の中州にやって来ると、松の大木の下に堂を見つけ、
その中に弘法大師の像があった。
衛門三郎は大師像に何度もお詫びをし、ここで一夜を明かした。翌朝、出立の際に木を削いで札を作り、自分の名を記して堂に納めた。
これが納札の始まりと言われている。
月見大師堂(大師堂にかかる説明文をそのまま列記)
昔、とある遍路が、四国88ケ所巡礼の途中・浄瑠璃町のある家に泊まっていた。
その日は満月の夜で月の光がさえ、家から東の方向を眺めると東の方に人が立っているのを見つけた。
何とそれが弘法大師であったということで、「もったいないことじゃ。ありがたいことじゃ。」と拝むと、大師の姿はパッと消え、そこには丸い
月の形の石が残っていた。その石には「月見弘法大師」と刻まれており、後にそれが月見大師となって、盛んにお祭りが催されたが、
ある年この縁日でチフスが流行し、それが原因でさびれてしまったという。
現在のお堂は 1994年4月に落成し、長らく野ざらしの状態になっていた石を現在のお堂に移しお祀りした。
網掛け石伝説
昔々、険しい三坂道の途中には、2つ巨石が突き出しており、道行く人々の障害になっていた。
何とか石を取り除こうと、何度も数人が試みるが、容易に動かすことができず、困り果てていた。
そこに、折よく弘法大師が通りかかり「取り除いて進ぜよう」と申し出る。
さっそく村人に、この地に自生しているカズラで大きな綱を作らせると、それを2つの巨岩にすっぽりとかぶせ、オウク(天秤棒)の両面に
つるして、山裾へと運び始めた。
しかしながら、この巨石は思った以上にずっしりと重く、石の表面には次第にカズラの網目がくい込んでいく。
ついには、耐え切れなくなったオウクがポキンと2つに折れ、その反動で、巨石の1つは御坂川の川底に、もう1つは坂の遍路道沿いに
転げ落ちた。
こうして坂に残された網掛け石は、弘法大師ゆかりの石として信望を集めるようになる。
いつしか、峠を通る遍路の間には、石の割れ目に納札を挿み込んだり、賽銭を上げて通過するならわしも生まれた。
さらに石の上に、弘法大師の石像も祀られるようになった。
昭和のはじめには、「お大師さんを雨ざらしにしておくのはかわいそうだ」と、近くに住む橘馬太郎さんが、石の横に大師堂を建立し大師を祀り
直している。
参考までに古地図を2枚載せておきたい。1枚は「旧街道」(愛媛新聞社 1973年刊)で2枚目は「街道の日本史」(吉川弘文書)からのもの。
(地図上をクリックで拡大できます)
上方に重信川があり、土佐街道は黒線で 遍路道や久米街道など旧街道が一緒に 表示されている。 |
土佐街道は中央に赤線で表示されている。 江戸時代末期のもの。 |