久谷地区の主な遍路道標

   今の遍路道は昔とあまり変わりはないが、江戸時代に利用されていた道は現存している。道幅は3尺(90cm)ぐらいで
   極めて狭い。昔の道は広くてもせいぜい一間半(2m70cm)程度。久万街道(土佐街道)で3m60cmで、幕府から
   道幅は決められていた。                 

   下図の地点では1,2,4あたりに遍路墓が多い。19の少し北側と「久谷大橋」を渡った地点にはより多くの遍路墓が
   存在する。「肥後」「雲州」「越後」などと刻まれたものもある。お金を持っていた遍路は死後も墓に名や出身地を刻んで
   もらえたが、ほとんどは無名で上に置かれた小さな石も今は除けられたものが多い。


   遍路の服装は死に装束といわれる。昔、四国遍路に出かけることは家族とのとわの別れを意味し、水杯を交わして

   出発したことだろう。そこまで彼らを駆り立てたものはなんだったのだろう。草鞋をはき、雨風に打たれ、野山に伏し、
   訪れた民家でお布施を乞い、病に倒れても看取る人もない時代の遍路に思いをはせる。

   道標の製作年がわかっているものには、右枠の説明欄に記入している。



久万高原町からの出発点

2012年3月17日に開通した三坂第2トンネルが
久万高原町東明神から松山市久谷町大久保
間をつないだ。
そのため、三坂峠手前100メートルの地点にあ
る久谷を案内する道標が見ずらくなっている。
左の道標をさらにわかりやすくするため、新しく
作られた案内表示。

久谷地区の道標

1

御坂川を渡ってしばらく行くと右側に
「網掛け石」と呼ばれる大きな石が
ある。
お大師さんが網をかけて地元の人の
ために動かしたといわれるもの。
その石のちょうど下に遍路標識がある。
古くて文字が読み取れない。
この石の右側に別の石があるが、
そこには「ぢやうるり寺へ三十三丁」
と読める。

2

松山市役所久谷支所坂本出張所の
横にある標識。
今はこの前にある舗装道路を通るが、

昔は標識の左側にある狭い道を通った。

天保2年(1831)

3

御坂川を渡る窪野地区の橋のたもと
に見られる標識だが、道路工事等に
より半分以上が埋まった状態である。

明治40年

4

46番札所「浄瑠璃寺」の南約100m
の地点にある。
今はこの前を通って札所に至るが、
昔はこの地点で左折し、現在も残る
狭い道路を通って札所(浄瑠璃寺)
に正対した。

文政卯(1819)

5

浄瑠璃寺の前にある標識。
昔はこの前の道路を通らず、寺の横
から山手のほうへ向いて歩いた。
この標識は移動されたものかもしれ
ない。

明治丁(1907)

6

浄瑠璃寺から北西へ約150mの地点
にある。
ここは三つ角になっていて迷 いやすい
場所。47番札所の「八坂寺」は少し
行けば山手に見える。
右の標識は左のものから300m程度
離れた場所にある

文政12年(1829)

78

八坂寺入り口にある。
左右ともに標識は右を指す。
今はほとんどの人が寺に至る舗装道路
を通るが、本来は右の狭い道路をたど
り、大きな池の前面で次の標識を見て
歩いた。

明治23年(1890)

9

この標識は八坂寺から100m北に
行くと見える池の北側土手にある。

「貞享二年三月吉日」の文字と広げた掌。
その下に「右 へんろ道」とある。
1685年頃のもので四国では番めに
古い。1番古いものに残念ながら1ヶ月
遅れとなっている。

1番古いのは南国市の第29番札所
国分寺横にあるもので、元禄二年
(1689)二月となっている。
石の形も文字もこちらのほうがはるか
に優れている。

10

左の遍路標識を100m下がると別の
(
県道194号線)に交差するところに
ある。

11

上の標識から県道194号線に沿って
500m
程度下ったところにある。
「左八塚道」とあるのは、ここから左へ
行くと四国遍路の始まりといわれる
「衛門三郎」の子供八人の墓と伝えら
れている史跡があるため

大正2年(1913)

12

この標識も半分以上が埋もれている。
衛門三郎の子供の墓といわれる古墳群
を訪問した遍路のための標識である。

13

上の指図に従って土佐街道(今の
県道194号線)を400mほど下がると、
狭い道を示す案内標識に出会う。
これが旧道で、本来の「土佐街道」
でもあった。

明治19年(1886)

14

この標識は上の標識からほぼ250m
程度にある。
ここからしばらく東へ向かうと御坂川
を渡る。
西林寺までは1km足らずの距離に
なる。

大正15年(1926)

15

残念ながら文字その他一切読み
取れない。
小村町の神社境内北側に設置され
ている。
 

16

札始大師堂のほぼ北100mの
場所にある。

17

久谷大橋の南側県道23号と40号線
が交わる交差点の南100mの地点
にある。

明治26年(1893)

18

県道23号線と40号線の交差点に
ある。
久谷地区最後の標識。久谷が松山地区
と合併した記念に作られた久谷大橋以前
には県道40号も存在せず、昔の遍路は
川を歩いて渡った。
この付近には遍路の無縁墓が多い。

 

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