坂本地区の久谷川に架かる橋
この川が「久谷川」と呼ばれる理由は次の古文書でわかる。いつ頃のものか
ところから明治のものではないだろうか。
メートル法ではなく尺貫法が使われている。
それより後かもしれない。
ここにある「大谷」と「落合」は源流地と合流地。
「片山橋(かたやまはし)」
村史には材料はで石桁延長7.2m、巾員2m、完成は明治44年となっている。
この間何度も改修されたことだろう。
久谷町では比較的人家の多いところをつなぐ橋である。
ゆかりの
「中組橋(なかぐみはし)」
村史に記載なし。橋の左側は中組集会所。
左へ行けば勝山天満宮に至る。右側は行き止まりとなる。
「あかだ橋(あかだはし)」
この橋も村史には見当たらない。しかし、銘板がなく石に刻んであるものが頼り。昭和53年5月と彫ってあるが、
もう少しまともな銘板であってほしい。
橋の右側がメーン道路。
「地蔵橋(じぞうはし)」
この橋も村史に出てない。川で溺れた子が昔いたのだろうか。久谷地区の主な橋で
のは2か所だけである。残る1つは、荏原地区の「大正橋」。
この地蔵橋を渡って前に進むと、坂本屋のある桜地区へ出る。
「表田橋(おもだはし)」
上の写真からその後昭和57年3月に改修されたことがわかる。
「宮ノ前橋(みやのまえはし)」
村史には出てない。完成年度も新しい。左手にある水車がかわいい。
目測で橋の長さは大体4m、幅は2.5m程度。
「にいだ橋」
この橋も含めてこの後はすべて土地に住む古老から聞き取った名前である。
「うらがたに橋」
「せと橋」
この橋が久谷川源流の近くで、この先に橋はもう存在しない。