久谷地区に架かる橋

久谷地区には、御坂川を中心に地区を2分して貫流し、坂本地区にはさらに久谷川がある。御坂川と
久谷川は松山市役所出口出張所から南へ500mたらずの場所で合流する。ここで一体となった川は、
御坂川で砥部町高尾田の砥部川と合流して、重信川に至る。

まず、三坂峠を源流とする御坂川と久谷町の奥深くを源とする久谷川の二つの川に架かる橋をざっと
見ていきたい。空欄は不明箇所。

表で示すと下図のようになる

久谷地区の主な橋
荏原地区 坂本地区
御坂川 御坂川 久谷川
橋の名前 完成年度 橋の名前 完成年度 橋の名前 完成年度
鳥ケ成橋 S.35.5.27 矢谷橋 片山橋 S.43.3
嘉之助橋 S.59.3 出口橋 S.33.3.31 中組橋 S.51.3
古市橋 S.32改築 関屋橋 あかだ橋 S.53.5
大正橋 1975.3 小西橋 S.46.3 地蔵橋 S.47.3
上川原橋 S.37.12 上関屋橋 H.10.7 表田橋 S.57.3
宮北橋 H.13.4 榎橋 S.51.3 宮ノ前橋 H.15.3
昭和橋 H.5.3 新榎橋 S.48.3 にいだ橋
銅釜橋 S.57.3 うらが谷橋
梅ノ瀬橋 せと橋
桜橋 S.36.3
穴田橋 S.41.3
小堀越橋
桜四号橋 S.34.3


久谷地区は南北に長く、谷に沿って長いということから「久谷」の地名が生まれたわけだが、それにつれて
橋の数も多い。
 なお、松山市に編入される前は「久谷村」だったが、その名前の由来は公募。
そのため、いかにも山の奥の感じになった
ことは否めない。

写真には撮らなかったが、ほぼすべてのやや大きめの橋も含めて、名前の銘板は漢字とひらがながあり、
ひらがなの
部分の最後は「はし」で終わっている。これは川が濁らない期待を込めた濁音にしてないそうである。

重信川にかかる「久谷大橋」や「森松大橋」も最後は「はし」で「ばし」だとずいぶん韻が悪く響く。

橋名板

橋の両端内側に橋名板という銅板がはめ込んである。これは1984年(昭和59年)当時の建設省が取り付けるよう
指導したもの。
橋の起点側の左側に「漢字表記の橋名」、右側に交叉する「川の地名」。
橋の終点側の左側に橋の名前を「ひらがな表記」、右を「竣工年月」となっている。


川の名前に関する疑問



そこで国土河川課、県河川課に尋ねた。国土河川課は「この問題は県が担当ですが、調べてみます」の返事。
その後、
愛媛県土木部河川港湾局河川課から次のような返事が来た

さて、砥部川及び御坂川は、本川である重信川とともに、昭和4年5月1日に旧河川法に基づき、
認定されております。御坂川の支川である久谷川も、昭和35
3月31日に旧河川法に基づき、
認定されております。
砥部川、御坂川及び久谷川として認定された河川の上流端(起点)及び下流端

(終点)は、別添ファイルのとお
りです。

なお、河川名は、地元で呼ばれているものと認定(現行河川法では指定)されたものが違うこともある
ようですが、地元でいろいろな名前で呼ばれること自体は、
差し支えありません。ただ、河川管理上は、
お尋ねの河川について、それぞれ上記
の時期から、それぞれの河川名になったということになります。」

(下線は筆者による)

上に述べている資料を載せる。

砥部川、御坂川及び久谷川の上流端(起点)及び下流端(終点)

河川名 左岸
右岸
上  流  端 下流端
砥部川 左岸 伊予郡砥部町大字川登字十郎甲2293番地先 重信川への合流点
右岸 伊予郡砥部町大字川登字十郎甲2285番地先
御坂川 左岸 松山市久谷町寅次郎乙981番の1地先 砥部川への合流点
右岸 松山市窪野町砥石場甲2212番地先
久谷川 左岸 松山市久谷町上の向井甲2037番地先 御坂川への合流点
右岸 松山市久谷町コンボ甲2035番地先

まずは荏原地区から眺めてみる。


南から順に橋をたどってみる。

「鳥ヶ成橋(とりがなるはし)」

この橋は県道207号線と194号線を結び、ほぼその中間に久谷中学校がある。愛媛国体前には、大友山トンネル
で砥部町とつながっている道路が久谷中学校北側を抜けて、
県道207号線と矢谷で合流することになる。

初期の記録では、名前は「新張橋」で延長7間(12.6m、幅員7尺(2.1m)。架橋の年月日は不明だが、構造は「要悪水
川(ようあくすいがわ、と言って大雨の時に増水する暴れ川
の意味)」として早くから存在した。久米街道と土佐街道を
結ぶ要所でもあったためである。

明治のころにはすでに「新張橋」で利用されていた。昭和35年の改修の際は延長25m、幅員4.5mとして今に至る。


「嘉之助橋(かのすけはし)」

旧金毘羅街道にかかる橋で、東進すると重要文化財渡部庄屋屋敷前に至る。橋のたもとには駐在所、JA
ガソリンスタンド、東明病院が存在する。

この橋は、古市橋と並ぶ荏原地区最重要の橋梁。古市橋と同様に明治42年、長さ10間(約19m)、幅を6尺
(約1.8m)で石材を使って完成。


明治35年にはすでに石造りとなり、延長11間(19.8m)、幅員7尺(2.1m)となっている。昭和28年に改築。

「古市橋(ふるいちはし)」

橋の南側から眺めた写真だが、白い建物があるあたりはやや平坦で広い。戦後まもないころあのあたりに
「太陽座」という映画館があった。さらにひるがえって、もっと
昔には荏原小学校、明治初期には東方尋常
小学校が存在したところである。

橋をまたぐ道は土佐街道、久米街道、讃岐街道につながる要衝地でもあった。橋の両端の文字は、橋の名前
と川の名前を示している。

荏原地区で最も重要な橋の一つ。明治32年、橋の幅を2尺(約60p)に広げたが、常時見張り人を置くほど
危険だったらしい。明治42年、長さ10間(約19m)、幅を6尺
(約1.8m)で石材を使って完成。明治時代の
木造時は(延長13m、幅7m)だったが、
昭和32年鉄筋になる。その後改築されて今に至る。


「大正橋(たいしょうはし)

この橋は比較的新しい。昭和42年刊行の久谷村史にもこの橋の記述は見られない。

おもしろいのは川の名前が「御坂川」ではなく「久谷川」になっている。

この橋は「駄追橋」と昔は言ったらしい。そうであれば、村史には木造での記録が残っていてもいいはず。

古くは明治40年5月30日の木造架橋で、延長9m、幅員7尺(2.1m)。重要な個所だったんだろう。

「上川原橋(かみがわらはし)」

昔の名前がわからない。昭和37年には今の「上川原橋」の名称が見える。

遍路が利用した重要な橋である。昔は「大宮橋」といって、木造だったかもしれない。

「宮北橋(みやきたはし)」

この橋は明治初期「宮ノ北橋」として記録が残っている。明治39年1月10日に架橋され、木造で長さ16間(28.8m)、
幅7尺(2.1m)となっている。大正7年に改修され、石橋となっ
て長さ17間(約30m)、幅10尺(3m)となった。

重信川渡河地点から最短の土佐街道へ通じる橋として、古くから使われていた。


「昭和橋(しょうわはし)」

もともとこの橋は昔存在してなかった。上野町に教育センターや団地ができてから、必要性に駆られて出来上がった
ものである。















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