久谷地区の五輪塔
久谷地区には里山らしくところどころに五輪塔が残っている。たぶん鎌倉期から室町時代のものだろう。
断定できるだけの学識を有してないが、いずれ調べてみたい。
時期の違いについてネットで質問したところ「火輪(屋根の様なカタチ)の側面に注意するみたいです。軒先が直立すると
鎌倉時代頃まで、これが斜めになる程やや下がるみたいです。」との回答を頂いた。どうもよくわからない。
私が調べた範囲では、久谷地区に6カ所五輪塔の存在する場所がある。久谷が里山であることを考慮すればもう少しあって
もよさそうなのだが。佐田岬半島などに比べて著しく少ない。土地開発で無くなったものもあるかもしれない。
次に、存在する場所とその写真及び寸法等を載せておく。なかには数年の間に崩れたものもある。
所在地: 東方町矢谷地区
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こちらは実物だが、確かにきれいで 堂々として保存状態が良い。鎌倉時代の 地頭であった土岐氏のものとされる。 |
上は竹内真人氏作成の実測図 |
興源寺があったと思われる場所。 五輪塔は左手の竹藪ふもと。 |
何の碑だかよくわからない。 |
所在地: 津吉町
津吉町に残る土岐氏の墓とされる ものだが、4年前に撮った上の 写真から比べて、すでに右側の 塔が崩れている。 崩れた五輪塔のものと思われる 石が散乱している。 撮影は2014.5.9日。 |
所在地: 浄瑠璃町
火輪が小さく軒反りもゆるやかだが、火輪を含めて 上部を見た限りは室町期の香りがすると思う。 |
田んぼの片隅の1坪程度の場所に保存されている。 |
ここではまだきれいにそのままの形で残っている。 誰を祀ったのか伝承がない。 |
場所は矢谷の反対側、八坂寺と浄瑠璃寺の 中間点にある五輪塔。 |
上の写真の五輪塔の一番右側のもの。 地輪からすると鎌倉後期から室町前期か? |
火輪が水輪よりかなり小さい。 |
右から2番目の五輪塔。やや小ぶりで、火輪は水輪よりも かなり大きい。 |
空輪の形、軒反り、ゆるやかな軒から鎌倉末期か。 |
水輪の半分が欠けている。火輪の幅は広い。 宝珠が不安定で気になる。軒が緩やかで反りもあり なんとなく鎌倉末期のような気がするのだが。 |
欠けている部分(空輪の背面、火輪の下半分)が多い 五輪塔である。割れた部分はそのまま背後にある。 |
最初の五輪塔の水輪に梵字の跡らしきもの がうかがえる。 |
2番目の五輪塔の火輪。 |
所在地: 浄瑠璃寺境内
荏原城主平岡通倚の墓。 典型的な室町後期のもの。 |
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平岡城主の跡を継いだ方が、 長岡さんらしい。 平岡氏は広島県の竹原に 移ったあと、関ヶ原以降 毛利藩の縮小にともない 山口県の屋代島に住んで 苗字が変わった話は聞い たことがある。 |
所在地: 出口集会所南約100メートル
ハゼの木が植えられていて、人が近づかない工夫 が昔からされていたと、近所にお住いの方が言わ れた。 近くにある勝山城主立林大膳上に関係するのか? |
火輪と地輪が一体である。右側の 小さいのは形状から室町期の ものと判断したい。 |
所在地:窪野町北谷(丹波バス停から左折し、約2.1qで正八幡神社の近く
ご近所の方にうかがうと、散逸していたものをここ一箇所にまとめたらしく、その時期は分からない
そうだが、石の外状をみるとかなり古い。
このすぐ近くには戦国時代、真城という山城があった。それと関係するのかもしれない。
時代測定は難しいが、この五輪塔を調べた方が鎌倉時代後期だといわれたらしい。
浅学菲才の私には決め手がない。
道をはさんで北側に別に4つの五輪塔がある。
左端の五輪塔は空鈴と風鈴 が一体化している。 |
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五輪塔の南側に小さいお宮と小高い丘が あり、昔の要塞を思わせる。 |
登ってみると、地面が平らになっている。 |
さらに南東はこんな感じ。 | 畑の端っこにある五輪塔の名残り。 |
往時、ここには砦までとはいかなくてもかなり大きな屋敷跡があり、防御のための急斜面も
残っていることからして、近くの新城台にあった城塞との関連を考えても不思議ではない。
その他
個人の家の庭にあるのをひょいと見つけた。年代的には室町期のものと思われる。
家の老女に聞くと、江戸時代は広大な土地を所有していたらしい。墓もついでに調べてみた。
庄屋に次ぐ組頭的存在だったのかもしれない。
形状からして室町後期か?宝珠が大きい。 | この家の墓。江戸時代、並の農家で なかったことは分かる。元文2年(1741) の文字と文化六年(1809)が読み 取れる。 |
八坂寺の北東100m付近で見つけた五輪塔。 遍路道に沿って以前あった竹藪を切り開いたため、 見えるようになった。右側は崩れている。宝珠が 欠けているが、散らばっている石の中にあるかもしれない。 |
勝山天満宮の東側に友人がたまたま見つけた。 急いで写真を撮りに行った。 きれいに保存され、安置されている。火輪と水輪がほぼ 同じ大きさである。実にきれいで、堂々としている。 |
この広々とした屋敷にいた方々を祀る五輪塔だろう。 道から5m位高いので、備えを兼ねた身分ある地位の 人のをしのばせる。 |
東方町の大連寺横の墓地にある。霊標には慶長9年 (1604)、大阪から四国に下ったとある。火輪は典型的 に 江戸期のものである。 |