衛門三郎物語

衛門三郎は四国遍路発祥の人物と言われている。
彼に関する物語は、私が知っているだけでも子供の時に親から聞いたもの、村史、伊予の民話、予陽盛衰記、
文殊院にある絵詞、札初大師堂が出している文書などいたるところで微妙に異なっている。

ここでは村史に基づいて物語を書いておく。

今から約1200年前、弘法大師空海上人は、一人の弟子を連れて四国霊場最後の巡検で伊予の国浮穴郡の大河
(重信川)を渡ろうとした時、突然一人の童子が大師の前に現れ「.孫氏霊場を開くといえども、人々まだ仏法に入り
がたく、願わくば邪見の輩を善導し、巡業巡拝させれば、来世の鏡となる。
大師は今のは仏菩薩の化身かと拝んでいるうちに、大雨が降り先へ渡れなくなった。
そこで仕方なく山陰にある小寺に身を寄せた。ここが徳盛寺で、先の童子は文殊菩薩の化身であった。
以後、この寺を文殊院と呼ぶ。

 

 

大師は徳盛寺を住所と決めた。この村に住む大富豪で庄屋であった「河野衛門三郎」は強欲非道、けんどんで邪見、村人がいかに困っていても見捨てるような無慈悲な人間だった。

 

そこで大師はこのような悪人を善人に導くことこそが出家の本文であると決め、門前で托鉢を行った。
何度行っても追い返され、ついに8日目「そんなに物がほしいのならこれをやる」と言って下僕が持っていた箒を取り上げて、大師に殴りかかった。

鉄鉢は地面に落ち光を放ちながら舞い上がり、彼方の山に飛んでいった。
落ちた場所に8つの窪みができため「八窪」と今も呼ばれている。    
 

衛門三郎には8人の子供(53女)がいた。坊さんの鉄鉢を割った翌日、長男は頭が痛いと苦しみながら絶命した。

その翌日には次男が同様に急病で亡くなった。

こうして8日間で五男三女が次々亡くなり、墓の前で涙を絞る悲痛な身となった。
ある夜、大師が夢の中に立たれ、「嘆くでない。徳盛寺に地蔵尊と私の像を安置し、四国を順逆となく21回まわりなさい。その時私はあなたに出会って、罪を許しましょう」

衛門三郎はあの時の坊さんが空海上人であったことがわかり、謝罪するために四国遍路に旅立った。この時のいでたちが、遍路装束の起源と言われる。

1日も早く面会させてくださいと毎日祈りながら、何年もたち、用意していた金もなくなり、夜は野宿、昼は門前で物を乞う身にまで落ちぶれた。
四国を20回まで回ったが、会えない。阿波(徳島)の第11番である切播寺で考えた末、逆にたどることにした。

12番の寺焼山寺についたときは病のため、歩くこともできず苦しんでいるとき、目の前にあの大師が現れた。

「お前の命も今日限りだが、来世は天上界なり極楽なり望み通りにしてやろう」

「我が家は河野家に血筋があります。どうか国主の河野家に再生させてください」と頼んだ。

大師は小石を拾って「衛門三郎」と書き、手に握らせた。

天長8年(8311020日のことだった。

天長9年、伊予の豪族河野家の城主河野息利(やすとし)に男児が生まれた。

しかし、生まれながらにして右手を開かない。神仏に祈願してようやく手を開けたところ、一寸八分(5.4cm)「衛門三郎」と刻んだ小石を握りしめていた。

この子は河野息方(やすかた)と名付けられ

後に河野一族の主となり、伊予国の領主となってからは、善政を施して偉大な功績を残したといわれている。

この善政により自分の罪業を償ったという話は「河野軍記」「河野系図」「予陽盛衰記」などに説話と記されている。
徳島県に残っている衛門三郎の墓。

衛門三郎が握っていた小石は、河野家代々の「玉の石」と名付けられ、宝物とされた。

鎌倉時代、河野家に時宗の開祖として有名な一遍上人が、この石は河野家の菩提寺である道後の安養寺に奉納した。

それ以来この寺は「石手寺」と呼ばれ、現在の宝物殿に安置されている。
衛門三郎が弘法大師に巡り合えた
といわれる「杖杉庵」にある石像。

 

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