松山市立荏原小学校

松山市立荏原小学校(まつやましりつえばらしょうがっこう)は愛媛県松山市南部の郊外に位置する、

男女共の公立小学校である。

「主な項目」

概 要 沿 革  校 歌  写 真  余 話



概要

松山市立荏原小学校
国公私立の別      公立学校
設立年月日 明治19
校  訓 あかるく、いきいき、なかよく
生徒数 472名 (H.28.6.2日  現在)
共学・別学 男女共学   (男子258名   女子222名)
教職員数 30名
所在地・連絡先
所在地 〒791-1123
愛媛県松山市東方町甲1245番地
電話番号 089-963-10031004
FAX番号 089-963-4481
外部リンク 公式サイト


校区
      旧荏原村をすべて含む。面積は14.3平方キロメートルの田園地帯。ほぼ中央を御坂川が流れる。
      東は東温市、西は砥部町、南は坂本小学校校区に接する。幹線道路は土佐街道と言われた
      県道194号線と新しくできた207号線が南北を縦断する。史跡が多い。

規模     
     児童数 497          学級数 19(平成22年度) 「かがやき」学級3を含む。


教育方針
        気づき、考え、実践する児童の育成



沿革

                小学校(4年課程)となる。
      明治20年(1887)、東方尋常小学校(4年課程)設置。この時の学課は、修身、読書、作文、習字、       
                                  算術、図画、体操の
七科が指導科目となる。その年の卒業生は11名。以降、

                        明治26年までは10名前後で推移。明治27年以降になって卒業生が20名を超す。  

                             授業料は尋常科=8銭 高等科=30

           同年614日、荏原講堂(荏原中学及び公民館兼用)落成。



校 歌

作詞  峯  雪栄

作曲  宇都宮義秋

1 流れも清き 重信の           2 山の背やさしき 大友の

  ほとりに生まれ 手をつなぎ        緑をあおぎ 手をつなぎ

  ともに未来を のぞみつつ                    ともに明日を 築かんと

  われらは学ぶ 荏原小学校        われらは鍛う 荏原小学校 


3 野には花みち はるかなる           4 夢の日遠く なりぬとも

  瀬戸をのぞみて 手をつなぎ         とわに忘れじ 友の顔

  ともに歌いつ 遊びつつ            とわに忘れじ 師の教え

  われらは育つ 荏原小学校         われらが母校 荏原小学校 

 

学校の写真

正門前 玄関前
南校舎 北校舎
コモン・ルーム 地域指導者参加学習
運動場 校訓碑


荏原小学校のホームページ

松山市立小学校一覧

余 話
 ここには創立百周年記念し「荏原」から古老の学校の思い出や筆者の思い出を記してみたい。
古老の話はできるだけ原文に基づいた。紙面の都合で戦争終了時の昭和20年少し後までにする。

・明治37年卒(M氏)・・・荏原村東方尋常高等小学校と刻んだ石が現在の幼稚園と同じ場所の南北にあった。

・大正4年卒(W氏)・・・校外運動場は、古市橋を西へ渡った北側にあり、運動会その他大勢集合する場所は、
        ここを使用していた。
・大正9年卒(T氏)・・・今の幼稚園前の道路をはさんで、東と西に校舎があった。東の校舎を「新校舎」と呼び、
        男子が入っていて、西校舎には女子が入っていた。二人掛けのいす。全員和服で、儀式のときには
        男子は縦縞の袴、女子はエビ茶色の袴で登校していた。
・大正11年卒(O氏)・・・西側の石門をはいると、寄棟平屋建ての校舎がコの字型に三棟たっている。これが西側
        男子校舎。反対側の石門をくぐると運動場を隔てて南側と北側に平屋建ての校舎がある。これが
        女子校舎。
        尋常科を卒業したのは、男子47名、女子36名。高等科を卒業したのは男子31名。女子17名。
・大正13年卒(M氏)…修学旅行は広島と呉へ二泊三日でした。朝まだき、学校の「はんぎ」の音を合図に集合
        でした。母が夜なべに縫ってくれた着物にえび茶色の袴をはき、もらったお小遣いは50銭でした。
・大正14年卒(S氏)・・・一年生の読本が色刷りに変って自分らは卒業した。自分達のは「ハナ ハト マメ マス
        ミノ カサ カラカサ」の白黒本だった。
        視聴覚教室のさきがけ、ピアノ、蓄音機、映写機などの教具が備えられた。

・昭和4年卒(M氏)・・・私たちは高等1年になってから生徒数が少ないため、男女共学になりました。
・昭和9年卒(M氏)・・・1年生と2年生のみ男女混合のクラス編成で、3年生からは男女別のクラスだった。
        校庭は今では想像もできないくらいに狭く、遊具も肋木と鉄棒くらいのものだった。東側には小川
        (注:これは今も存在する)が流れて境界となっていました。ここで手足を洗ったものです。
        保健衛生の方面では結核、寄生虫、トラホームなどが多かった。
       (S氏)・・・男子ばかり73名の大所帯だった。その頃伊予鉄の坊っちゃん列車が市駅を起点に森松
        まで走り、そこから客馬車にて客を砥部方面から久谷の丹波に運んでおりました。
・昭和11年卒(S氏)・・・子どもの頃の冬は、大変寒かった。厚い氷が張り、つららが下がり、休校になるような
        大雪も降った。また子守り、麦踏み、コロガシ、稲刈りなど年齢に応じてよく家事の手伝いをした。
・昭和14年卒(Y氏)・・・明治以前は主として恵原町が旧久万街道の宿場町として村一番の発展地でありました。
        各村の庄屋さんが廃止された後、荏原村が誕生するわけですが、統合された村の中心地は
        地理的に中央という考えから東方町に集中することになり、小学校もおのずと東方町に設置される
        ことになりました。
・昭和19年卒(M氏)・・・地区の親たちは、当時は子供たちに対して放任ではなかったと思いますが、「気をつけな
        いかんよ」くらいであったと推察されます。水泳にしろ遊びにしろ一人ではなく複数であり、必ず上級
        生でボス的存在であり、責任者がいた。

・昭和25年卒(M氏)・・・子供の遊びといえば、男の子は「こま回し、凧上げ、ラムネ玉、パッチン、竹馬、水てっぽう、
        竹トンボ、お宮の木登り、お寺での肝試し、泉や川での水泳や魚取りなど」。女の子は「お手玉、
        まりつき、羽根つき、おにごっこ、なわとび」が主なもので、地域の自然や環境に合わせた遊びだった。

筆者の小学校のおもいで
  昭和26年度の卒業。以下の内容は大体5年生くらいまでの思い出である。

学校生活> 古ぼけた木造校舎で夏は暑く、冬は寒さに凍えた。掃除時間は雑巾で拭く。廊下は糠拭き。
        戦後間もなくのノートはざらざらした紙で破れやすく、鉛筆はなめなめしないと書けない。「肥後の守」
        という名の常備の小刀で削る。

        暖かい時は外へ出て衣服についた虱取り。チリ草履をはいて校内を歩く。授業よりも親の手伝いが
        重視されていた。授業中に騒いで先生に顔中に墨を塗られ、冬だったので墨が乾燥するとひりひりした。
        生徒はほとんどが鼻をたらし、チリ紙がないので服の袖で拭く。その袖はてかてか光っていた。

        児童は回虫や蟯虫に悩まされていたので、学校からサントニンとか海人草などの駆虫薬をもらった。
        年に1回程度運動場で児童全員がDDT駆除粉末を体に浴びせかけられた。

        男の子はよくけんかした。でもすぐ仲良しになった。

        3年制のとき初めて運動靴の配給がクラスに1名割り当て。それがくじで当たった。靴引換券をもって横道
        の商店でもらった靴はしばらく履かなかった。ほとんどの児童はゴム草履かまたは下駄ばき。
        高下駄はハマがすり減ると、福田商店東にあったところでハマを入れ替えてもらった。

                 月に数回校長先生の訓話などがあり、そのつど運動場へ集合する。暑くても寒くてもじっと我慢できた。
        ましてや、卒倒する生徒がいなかったのはなぜだろう。

体罰>  6年の時の先生は、体罰の天才。1mはあるそろばんの上に正座、水バケツをもって教室の後ろに起立、
        5円玉を指の間にはさんでゲンコツ、両耳のもみあげ付近をつまみあげる、下敷きの端で頭をたたく、
        顔に墨を塗る、運動場を何周か走らせる、鼻にコンパチを入れる、とまあ丹念に書けば一冊の本になり
        そうなくらいである。


校外生活>近所の子供数人が集まると、土用部池の南側で野球。グラブやバットは全て手作り。チャンバラ
       ごっこ、自転車のリム転がし、昭和25年のM氏が書いているような遊び。お正月は男女が
       集まって花札遊びを深夜まで。とにかくその当時の子供は遊びを考える天才だった。

       家の手伝いが一番大切で、怠けるとすぐ親から「のらっ!」と怒鳴られる。
       田植え、これが一番しんどい。折り曲げた胴が痛く、ヒルが吸いつく。コロガシという稲の草取り。
       しろかき中に牛がへたばって動かなくなることもしばしば。当時の農作業は人にも動物にも大変
       だった。
       真夏の太陽で汗が噴き出す中をたんぼで『ころがし』を使って除草。稲や麦刈は首の中にイガイガ
       が入ってちくちく痛い。冬の麦踏みは北風で寒い。夜は炭火を入れた炬燵。気をつけないと灰が飛ぶ。
       牛の餌作り。井戸から水を組んで燃えないたばこの殻を燃やしてお風呂沸かし。時代もの映画に出る
       「吹きだけ」を使うが、多分、今の子にはとてもできない作業ばかりではなかろうか。

       夏場は学校帰りに鳥が成る橋付近で水遊び。冬は仕掛けを作ってスズメ取り遊び。
       小学3年生の頃、学校から連れられてアメリカ映画「白雪姫」を見た。カラーを当時は「総天然色」と
       言ったが、その美しさに圧倒された。

       手製のグラブやバットで男の子はお宮やため池の空き地で野球。冬場は木で作った車(?)で土手滑り。
       ケンドと呼ばれるものを使って雀取り。
                お正月には近所の子ども(男女)がある家に集まって、夜遅くまで花札、すごろく、トランプ遊び。
         
       今の「古市橋」の西側に「太陽座」という映画館があり、週一度日本映画を上映。むしろの上に座って
       雨の降るような荒い画面でも楽しみながら見ていた。松山には新栄座、銀映、東映座、国際劇場、松劇
       など7つ以上の映画館があり、正月の2日などは満員状態。銀映はもっぱら古い映画のみだったが、
       2本立て、時には3本立て上映で料金も安く、学生時代はよく行った劇場だった。

食べ物> ご飯は食べれたが、麦やイモが混ざっていた。魚は干物が中心。おやつがなくて焼き米をポケットに
       いつも入れていた。年数回来るパットライス屋さんが楽しみ。紙芝居のおじさんが売る水飴が1円。
       それを手で練って一番速く白くしたものに1本のおまけがある。水飴をもらうや否や1/3ほどかじって
       練りまわすので私がいつも一番。そのおまけがうれしかった。

       今では安い果物の代表であるバナナは大病するか死ぬ前の老人でなければ口に入らなかった。
       同じく卵も病気でなければ食べれなかった。カレーにクジラの肉を入れたら、近所の人にうらやまし
       がられた。
       バナナといえば、たまに市内へ出た時に銀天街や大街道でたたき売りをしていたが、高くて買え
       なかった。
       小学生時代のおやつは、焼米。ポケットに入れておなかがすくとかじっていた。

乗り物>  戦後しばらくまで森松から恵原のほうに馬車が走っていた。伊予鉄バスが走り始めた時期を正確に
       覚えてないが、小学校3年生の頃だったろうか。その当時までトラックは木炭車でボディの横についた
       小さいドラム缶のような金属の中に木炭を入れ、火を起こして走った。

       森松から出る汽車はいわゆる坊っちゃん列車。幅2m少しの狭いもので、立花あたりでは喘ぎながら
       登る。無賃乗車した人はここで飛び降りる。またはここで飛び乗って、森松手前で飛び降りる。
       木の座席がしばらくして畳を入れた座席に変った。
       市内電車は電線に丸い輪を当てて転がしながら電気の補給。終点では車掌さんがポールの向きを
       変えた。

       昭和35年頃、市駅と丹波を結ぶ伊予鉄バスはほぼ30分に1便あり、新張から市駅までの料金は45円
       だったと記憶している。特に、朝の7時から8時までは3便あって、混み合っていた。最終便は市駅を夜
       9時にでて、運転手と車掌は丹波にある宿舎に泊まった。

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