荏原城について  

主な項目

   荏原城                               荏原城の形                        現在の荏原城跡

   城主平岡氏について              戦国時代の平岡氏                平岡氏の滅亡


荏原城
                                                      

 桜の咲く春、大手口から見る荏原城

この城は、河野18将の筆頭たる平岡氏の居城で、上記のほか恵原城または棚居城の別称がある。
本城は周囲に土塁をめぐらせたその遺構が今も残っている。「忽那一族軍忠次第」の「会原城建武2年
1335)12月29日より3年2月に至る」戦いのころには築城されていたものと推測され、当時の
城主は不明だが、平岡氏の祖先であることはほぼ間違いないと柳原多美雄氏は(「古城をゆく」昭和47
愛媛新聞社刊)の中で述べている。それ以前の居館は東方町岡本と矢谷の両小字名の境にあったらしい。

建武2年の戦いとは、後醍醐天皇による建武の親政の後の南朝・北朝の動乱期におけるもので、久米郡土居を
根拠地とする土居通重の南朝勢と武家方に味方する高井城の大森春直とその与党との戦いを示す。
南朝勢の忽那義範らが建武2年(1335)12月29日から翌年の2月まで会原城(荏原城)を攻めたとの記録がある。


荏原城主として始めた名前が見えるのは、室町後期の天文年間以降で、平岡房実、その子の
平岡通資
(みちすけ)その弟である平岡通倚(みちより)、そのあと通倚の弟の直房などである



荏原城の形

城の遺構はほぼ方形の平坦地(約152a)の周囲に、堀を掘った土を高さ5m前後のかき揚げ土塁を築いている。
堀を含めた城の広さは、南北約120m、東西は約130mである。堀の幅は今はかなり狭まっているが、昔の計測
では北側が約20m、南側が10m、東西は14mであった。


内部は戦後の農地化改革により10余名が畑地として開拓した。しかし、周囲の土塁はそのまま残して
いる。居館跡の面積は、東西で60m、南北70mである。南面には土塁を伴わない幅42mの大手口があり、
枡形を持たない本陣城の構えとなっている。往時はこの土塁の上に構造物があったのだろう。東西の土塁
の南隅に2段に削平された平坦地がある。西側には7uの平坦地があって、その足下には石垣が積まれて
いる。隅に設けられた祠の石は、城の礎石を集めて台座にしている。

   上は、戦前の写真


この図面も戦前図られたもので、堀幅も
16mある。
規模から荏原城の本城というべき山城の縄張り図。
東西約350m、南北およそ300mある。
昭和初期の久谷の城をあらわす地図。


この城の東西の土塁はかまぼこ型で南隅から41m付近が低くなり、外側の武者走りに出る。北隅にも

5uの平坦面があり、2m下に郭を設けてさらにその下2mに武者走りがめぐっている。


西側の土塁は北隅から30m付近で内部との差がわずか50cmと低くなり、搦手として機能したのであろう。
この搦手の部分とその北側の平坦地とをあわせて見張り台のやぐらが築かれていたようだ。そこから
南面の土塁は凸状で、内側土塁に並行し、幅3から4mの郭が遺存している。

以上の文面については史家の森光晴氏の文献を参考にしている。


 現在の堀はかなりの幅で道路になっている

真城の跡。台地の上の盛り上がった場所。 勝山城の遠景。中央の盛り上がった山の頂上。
勝山城主は「立林大膳上」という名前
が残っている。
左はその勝山城主の墓。
民家の庭の隅にある。
 




現在の荏原城

       

     大手門付近                                         東側堀

      

         北側堀                                        東側土塁

     

         西土塁上の祠                                          西側土塁


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城主平岡氏について


出 自

平岡氏に出自について、愛媛大学の川勝教授は次のように述べている。

伊予郡の南部で、浮穴郡との境にも近い高台(伊予市大平地区の東側)に存在している平岡集落との関連が

想定される。この集落は伊予郡の平野部を見下ろす地点に位置し、ここからは森山氏の本拠地である大平地域

を眼下に望むことができる。平岡氏はこの辺りから出て、伊予郡・浮穴郡一帯に勢力を伸ばしていったのでは

ないだろうか。」

いわゆる土豪といわれた武士層は、本来苗字を自分が支配する地名を使う傾向があったことから考えて、
平岡という苗字も平岡という地名に由来すると考えるのが妥当である。


文書に出てくる平岡氏

年不詳の8月28日(1400年代後半と推察される)付きの細川政元(室町時代中後期の守護大名。室町幕府の
三管領。1466-1507)書状によると、浮穴郡郡の荏原・久万山にたいする「平岡競望」を退けるよう政元が河野通直
に申し遣わし、大野氏(久万山の地頭)にも協力を求めている。


5月17日付の政元書状でも、久万山の明神葛懸城の合戦における大野氏の軍功を賞し、宇都宮(大洲城主)
・森山両氏と相談して平岡氏を退けるように求めている。

平岡房実による発給文書が一番多いのは、永禄10年前後。当時は河野家の幼主「河野牛福」代理者としての位置に

あった。


平岡氏の台頭
平岡氏は文明年間(1469〜1486の17年間)ころから急速に台頭してきた一族であり、伊予郡・浮穴郡郡一帯に勢力

を伸ばしいく。伊予郡の森山氏や久谷地区の土岐氏を含め、併呑または駆逐していく。

平岡氏が「競望」したとされる荏原・久万山地域は土岐一族(新張城城主)の所有である。文明4年(1472)11月
22日、将軍足利義政が土岐氏の主張を認めて、美濃・尾張国内の所領とともに伊予の荏原郷の両方及び久万山
青河等地頭職として「守護使不入の地」の課役免除を行っている。


しかし、伊予における権益は不安定であったらしく、土岐氏は大野氏に対して荏原・久万山に対する合力を要請し、
土佐・讃岐の細川氏にまで合力に期待をかけた。

どうやら平岡氏が荏原・久万山地域に進出して土岐氏の領主権を脅かすようになったため、細川政元は大野、
宇都宮、森山氏らに土岐氏を支援して平岡退治を求めたようである。

そのかいもなく、16世紀になると土岐氏は衰えやがて平岡氏の与力として働くようになる。

  (注)
  上の文章に出てくる「久万山青河
」という地名が長い間わからなかった。先だって何気なくネットを見ていて次の文章に出会い、
   疑問解決した。(2016.10.20)

       「第11回 かみうけな合併協議会会議録 平成15年4月16日 かみうけな合併協議会記録
  ・・・最も古い例としましては文明4年といいますから、西暦で1473年、今から約530年前の現在の美川村の大川に
  住んでおられますある地頭に対して、これは室町時代になりますけども、室町の将軍足利義政が、所領安堵状という
  書状を美川村の大川に住んでおる地頭に出しておる。そのあて先が、久万山青河地頭あて、アオガワというのは青に
  さんずいの河です。この久万山青河、この青河というのは現在の美川村の大川を指すというふうに解説してありました。」


戦国時代の平岡氏

平岡氏の活躍が文献に初めて見えるのは、文亀3年(1503)のことで、平岡下総守が河野通宣(みちのぶ)に
反し、砥部の施梨(千里)城に立てこもったことである。当時、河野氏は湯築城主であった通宣と分家の通篤
(みちあつ)が相争っていたときだったから平岡氏はこれを好機ととらえ通宣に反し、通篤に味方して施梨城を
占拠した。このころの砥部地方は大森彦七の子孫が代々領有し、施梨城を本拠としていた。平岡氏はそれを
追い落とし、砥部地方を領有する。

平岡下総守の子孫に房実(ふさざね)という人がいるが、大和守と自称し、河野氏の執事(家老)になった。この
頃(戦国末期)の河野氏は土佐、豊後等の諸豪族から侵略を受け、内にあっては家臣の内乱が相次いで起こり、
勢いが衰えかけた時代であった。すなわち、主家河野家の勢力が、和田氏(東温市)・大野氏(久万高原町町)の
離反や、家臣の内紛や相次ぐ離反で衰凋し、土佐の長宗我部氏・豊後大友氏の勢力が、隙あらば伊予に侵攻し
ようと企てていた。

久谷地区の防備強化
永禄11年[1568]土佐の一条氏が500余騎を率いて久万山に侵入し、大除城を攻めたが、城主大野直正一族
および家臣団200余騎で防戦し、撃退した。その後、房実は大野直正と連携して土佐勢の侵入に備え、荏原城の
規模を拡張するとともに、直正は三坂峠の守備を堅固にするため葛掛、真城、勝山(以上、久谷地区の城名)等に
城砦を築いて強化し、荏原城と連携した

平岡氏の転戦と防戦

少し詳しく述べると、天文12年(1553)8月、久万山の大除城主大野利直は浮穴郡小手滝(東温市井内)城主
と不仲になり、大野氏は小手滝城を攻めたが、逆に打ち破られて敗走。利直は平岡房実が応援に来なかったこと
を恨み、その報復のため平岡氏の持城であった浮穴郡上林の北山城を攻め落とし、これを持城とした。このため
大野氏と平岡氏は険悪になったが、河野氏の仲裁で和睦した。


平岡氏は主家に忠節を尽くし、各地を転戦。阿波の三好氏を撃退すると共に、一条氏(高知県中村城主)に与し
て離反した地蔵ヶ嶽城
主宇都宮氏とも戦い撃破した

 

平岡房実は1560年代には勢力を伊予郡にも拡張し、久米郡・浮穴郡・伊予郡にまたがる勢力圏を築いた。

房実の死後は長男の通資が後継となった。通資は宮内太夫と称し、河野氏の執事となり、元亀3年(1572)、阿波
の三好氏の侵攻があったとき、これを迎撃。しかし、同年、織田信長の軍勢が四国征伐のため堀江・風早・三津
方面に侵入した際に松山市内の姫原あたりで迎え撃ったが大敗している。


同じ年の7月、安芸国(広島県)の毛利輝元の家臣ら8000余騎が三津・松前方面に侵入。平岡通倚は松前に
出陣して、敵を撃破。続いて同年9月、新居郡(現在の新居浜市及び西条市)外木城主石川道清が河野氏に離反
した時も河野氏の命により石川氏を降してい
る。


天正元年(1572)3月、喜多郡地蔵嶽(大洲市)の大野直之が土佐の長宗我部元親に通じたため、河野通吉は
通倚ら浮穴郡・伊予郡の軍
500余騎を率いて出陣し、毛利氏の助けによって喜多郡を平定した。

 
天正3年(1575)、毛利輝元の軍勢が織田信長の軍と対峙し、河野氏に援助を求めたとき通倚は2500余騎を
駆って手助けをしてい
る。

さらに、天正10年(1582)織田信長の家臣羽柴秀吉が備中(岡山県)高松城を攻めた時も毛利氏の要請を受け、
通倚は伊予の軍勢3.600余騎とともにを岡山に赴き、毛利氏を援助している。こうして見ると、各地に転戦した平岡
通倚は合戦のため生ま
れてきた人生のようである。


久谷での攻防戦
天正7年(1579)、土佐の長宗我部元親が侵攻してくると、平岡氏はこれを浄瑠璃寺から矢谷のあたりで迎撃、
撃退している。
地名はこのときをもって生まれた可能性がある。



平岡氏の滅亡

天正12年(1585)豊臣秀吉は四国征伐のため家臣である小早川隆景に大軍を与え新居浜付近に上陸。新居・
周布・桑村・越智・野間・風早の各郡にある諸城を落とし、道後の湯築城に迫った。中予の武将はそれぞれ城を捨て
て湯築城に集ま
りその周部を固めたが、平岡通倚はその際二の丸の守備に当たっている。

隆景は書をもって降伏を勧め、城中で評議の結果通倚の子息道良を人質として降伏した。それが729日のこと
で、秀吉は伊予35万石を小早川隆景に与えた。湯築城主であった河野通直はしばらく湯築城に滞在した。しかし、
天正157月隆景が筑前(福岡県)名島に転封した時、河野氏及び南予の西園寺氏は断絶。平岡通倚は家臣を連れ

て竹原(広島県)に移住。その後毛利氏が関ヶ原の戦に敗れ、防長2州に押し込められたとき、平岡氏は大島郡

和佐村に所領を与えられ幕末まで家系が続いたといわれている。。


慶長5年(1600)9月、関が原の合戦が勃発すると、河野氏再興という大義名分の下、宍戸景世
(ししどかげよ)、別に
河野通軌
(こうのみちのり)だという説もある、を総大将にして東軍に荷担した領主加藤嘉明の松前城を接収しようとした
しかし、嘉明の留守を預かっていた佃十成
(つくだかずなり)の夜襲により敗退。残りの勢力は平岡善兵衛など伊予の
累代の居城である荏原城に籠城。加藤軍を迎え撃つが、一揆は鎮圧された。以降、荏原城は廃城となった。そのとき

荏原町村ほぼ壊滅したという。


波乱な人生を送った通倚の墓は、今も松山市
浄瑠璃寺境内北側に祀られている。


     
                                                           

 

以後、平岡氏の名前は歴史の彼方に消える。


後日談

機会があって、先祖が元庄屋の山口敬彦さんと昔談義に花がはずんだ。その際に平岡氏の後日談をうかがうことができたので

ここに記しておきたい。

1600年の戦いに負けた後、平岡氏一族は広島県の竹原に移ったが、戦後処理で毛利氏が中国の9カ国から防長2国に押し込め

られると、平岡氏も後に続き周防大島に定住。姓も平岡の平を取り単なる「岡」と改めたらしい。

第二次大戦前、役場に勤めていた山口さんの祖父を訪れ、そのとき荏原城址を案内したそうである。

参考文献

           「予陽盛衰記」 西園寺源透写 著    愛媛県立図書館蔵

           「古城をゆく」 松久 敬 著  愛媛新聞出版社

           「伊予温故録」 宮脇 通赫 著   平文社
                                                                                                                                                  トップに戻る

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