久谷地区の大師堂

久谷地区には4つの大師堂がある。正直言って、多いのか少ないのかわからない。
どれもきれいに保存され、花が活けられたり、お供えがあったりでそれなりの信仰というか、
とにかく地区の方々の手入れが行き届いている。
 

場所は下図参照。


札始大師堂

ここは衛門三郎とゆかりの場所。
その昔、弘法大師が水の多い重信川を渡るとき、ふと菩薩が現れて「この地域は
仏を崇めないものが多い。汝仏法を説くがよい」と仰せられた。
そこで急きょ庵を建てたのがこの場所だといわれている。
ここを拠点にして各地を回るが、その折強欲非道、邪険な衛門三郎に会うことになる。


一方、自分の悪行により子供を亡くした衛門三郎は、弘法大師にお詫びを言うべく
庵を訪れたが既にいない。大師の木像を前に決意をする。木札に自分の名前を書き、
巡礼装束に身を固め、名札をこの庵に置いて四国巡礼の旅に出た。

このため、ここを「札始大師堂」という。中央の碑には「お大師さまお泊り跡」と書かれている。





中はお遍路さんの休憩所。

棚に祀られている仏像。

衛門三郎にゆかりの絵。

人物は衛門三郎だろうが、なんの事象を指しているのかよくわからない。


矢谷の大師堂

正確にはこれは大師堂ではないかもしれない。産土神にも関係あるものらしい。

中に祀られている石像は彫ってある文字や横に安置されている小さな像から判断すると、
弘法大師にゆかりがあるのだろう。いずれ詳しく調べる必要がある。



春、フジの花がきれい。



月見大師堂

これは久谷中学校南東100mの狭い道路横にある。写真で見る通り、四季折々に美しい
花が咲く。お堂の手入れもよく行き届いている。
ここから見る15夜は東の山の尉之城に映えて美しい。


ここの伝説を紹介する。

、お遍路さんがこのあたりで野宿していた。満月に近かったのか、その晩は月がこうこう
と輝いていた。
お遍路さんが何気なく山のほうを見ると、誰か人が立っているようだ。よく目をこらしてみると、
その方はお大師様だった。
びっくりした遍路は「ああ、ありがたい!」を連発したそうな。そして、手を合わせて、真剣に
拝んだ。
頭をあげてみるともうそこにお大師様はいなかった。しかし、そこには満月型の石が残っていた。
この石には「弘法大師」と刻まれていた。」
お堂の傍には月見弘法大師と書かれた石柱があるが、略して「月見大師」と呼んでいる。

 正面から(南向き)

 横から

  「月見弘法大師」と書かれた石柱

由来を書いた木版


中に安置されている月の形をした石
 

あみかけ大師堂

昔々、険しい御坂道の途中に、二つの大きな巨石があり、道行く人の大きな
障害になっていた。何とかこの岩を取り除こうと、村人が何度も試したが、うまく
いかない。
ある時、折よくそこへ弘法大師が通りかかり「私が取り除いて進ぜましょう」と
申し出た。この地に生えるカズラで大きな網を作り、それを二つの岩にかぶせた。
弘法大師が山裾へその大きな石をオウク(担い棒)で運んでいると、思ったよりも
重くずっしりしていた。ために、網目が岩に食い込んだ。さらにオウクが二つに折れ
て山へ飛んでいきました。
落ちた所をオオクボ(現在の松山市久谷町大久保)というようになりました。
また石の一つは下の川に落ち、もう一つはこの石であるといわれています。
この石は、表面に網目がついているところから、「網掛け石」といわれています。

とにかく、このような大きな石が付近にはない。かなり大きめの石も見当たらない。
どこから来たのか私も不思議に思う。




大師堂の内部




大師像と岩(網目がついている)


網掛け大師堂余話

昭和の初め「お大師さんを雨ざらしにしておくのはかわいそうだ」と、近くに住む
橘馬太郎という方が、石の横に大師堂を建立し、祭り直した。
それ以来この大師堂は、代々橘家によって大切に守り続けられている。

一方、御坂川に落ちた石のかけらは、現在、浄瑠璃寺の境内に保存されている。
下の写真がその実物。

inserted by FC2 system